2005年09月23日

古本屋にて

パウル・カレル著「バルバロッサ作戦 上・中・下」全巻そろえることに成功しました!独ソ戦についても報告していけたらと思います。
posted by 戦車男 at 21:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月22日

自走砲@

進軍した部隊が急力な敵陣地に遭遇したらどうするだろうか。手持ちの兵器ではどうしようもない場合、大砲をひっぱてきて攻撃するしかない。しかし、重い大砲をひっぱてくるのは面倒であるし、銃弾飛び交う前線では非常に困難なことである。それならば最初から大砲を自動車の上に載せてしまえばいい、さらにいえば塹壕を乗り越えられ、銃弾にも耐える戦車の車体部分に載せればいい。こういった発想から生まれたのが自走砲である。

この自走砲が実用化されたのは、ドイツ軍においてで、1940年のフランス戦に本格的に投入され始めた。V号戦車の車体を利用し、それに大口径の7.5cm砲を搭載したものであり、V号突撃砲と呼ばれた。砲の火力と戦車の防御力を兼ね備えた自走砲は固定陣地に対して絶大な威力を発揮した。

V号突撃砲G型
Stug3-2.jpg

自走砲は戦車に似ているが、上記のように誕生した経緯は異なるし、違った特徴を持っている。一つは、直接車体に砲を積むために、同じクラスの戦車比べて大きな砲を積めるということである。二つ目は、砲塔を持たない分、その重量を装甲に当てることができ防御力を高くすることができ、さらに車高を低くして被弾面積を小さくできることである。三つ目は生産が容易だということだ。構造が簡単な上、既存の戦車の車体を流用すればいいからである。

第二次世界大戦が勃発してから、自走砲は大雑把に言って三つの種類に分化していくことになる。
@従来どおりの陣地突破のための自走砲。破壊力のある大口径の火砲を積み防御力が高い。ドイツ軍では「突撃砲」と呼ばれる。代表的なものとしてはドイツ軍のV号突撃砲、W号突撃砲など。

Aそれまでの牽引式の砲に機動力をつけた自走砲。用途に応じて各種様々な砲を積むが、榴弾砲が多い。装甲は薄い。車体の上に砲を載せただけで、まったく防御が考慮されていないものもある。ドイツ軍では「自走砲」と呼ぶ。代表的なものとしてはドイツ軍のマーダー、アメリカ軍のプリースト、日本軍の一式砲戦車などがある。

一式砲戦車
一ョ砲
戦ヤ.jpg

B対戦車砲を載せ、戦車を撃破するための自走砲。貫通力のある長砲身の砲を積み、防御力も概して高い。ドイツ軍では「駆逐戦車」と呼ぶ。代表的なものとしてはドイツ軍のヘッツァー、ヤクトパンター、アメリカ軍のM10、ソ連軍のSU85などである。

SU85
su85.gif

ヘッツァー
ヘッツァー.jpg

自走砲は、その生産性の高さ汎用性の高さからいろいろな用途に使われるようになったのである。次回はそれぞれの自走砲がどのような活躍をしていったのか、そして現在に至るまでの自走砲の歩みを見てみたい。
posted by 戦車男 at 14:49| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月21日

多砲塔戦車

T35多砲塔戦車
t35_11.jpg

第一次世界大戦、膠着した塹壕戦を突破するために生まれたのが戦車である。塹壕を突破し、あらゆる敵をなぎ払いながら進軍する。これが戦車である。突破力と強大な火力による歩兵支援という思想を、もっとも忠実に反映しようとしたのが、第一次大戦後から第二次大戦の初期まで研究された多砲塔戦車である。

多砲塔戦車には、突破力とあらゆる敵を打ち負かす攻撃力を備えた、いわば「陸上軍艦」としての活躍が期待された。有名な開発国としてはソ連とイギリスであろう。ソ連ではT28T35が、イギリスではインディペンデント戦車などが代表である。

ソ連のT28とT35は、フィンランドとの冬戦争第二次世界大戦で実際に使用された。しかしながら、多砲塔戦車は当初の期待にこたえることはできなかった。砲を積みすぎたために、車体が大きくなり、対戦車砲のよい的となってしまった。おまけに多砲塔戦車は、車体の大きさゆえに装甲を薄くせざるをえなかったのでフィンランドの旧式の対戦車砲や普通の野砲でも簡単に破壊されてしまったのだ。塹壕戦が中心の第一次世界大戦ならともかく、戦場が流動的な近代戦では鈍重でおまけに防御力も弱い多砲塔戦車はでくのぼうだったのである。

多砲塔戦車は、あまりにも多くの機能をひとつのものに詰め込もうとしたために、あらゆる弱点も同時に抱え込んでしまったのである。イギリスは第二次世界大戦前に多砲塔戦車に見切りをつけ、ソ連も冬戦争の敗北を境に生産を止めてしまった。戦車大国ドイツは、多砲塔戦車の生産は実験的な2両のみで、その他一切の多砲塔戦車を生産してはいない。

多砲塔戦車は、ひとつの戦略にあまりに特化しすぎたために、環境の変化にまったく対応することができなかった。栄え滅びたかつての古代生物を思わせるものがある。
posted by 戦車男 at 22:24| 東京 ☔| Comment(3) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月19日

戦車の装甲A

前回のコラムから時間が経ってしまったが、戦車の特徴である防御力について、引き続き見てみよう。前回では主に第二次世界大戦までの装甲の発達を見てきた。今回は戦後における装甲の変遷を中心に見てみよう。

戦後初期の戦車の装甲の特徴は第二次大戦中期から発達していた、被弾経始の重視であった。被弾経始とは本来は築城の用語であるが、装甲に角度や丸みをつけて砲弾を弾きやすくすることである。また、装甲板を傾斜させることによって砲弾が通過する部分の実質的な厚みを増加させることができる(下図参照)。
DSCF0002.JPG
ソ連のT55やアメリカのM48、日本の61式など、戦後初期の第一世代といわれる戦車のいずれも、おわんを伏せたような丸い砲塔に傾斜した車体装甲を持っているのはこのためである。

M48
m48mbt_01.jpg

さらに、戦車は大戦後に発達した歩兵の対戦車携行兵器に対処しなければならなかった。このためリアクティブアーマー(戦車の装甲の上に取り付けられ、対戦車兵器の命中に際して爆発し、それら兵器の貫通力を相殺する)や、様々な増加装甲が開発され、用途に応じて戦車の装甲の強化がなされた。加えて、このころから戦車にはNBC兵器(核・生物・化学兵器)に対する防御が付加された。ソ連は、核戦争下で行動しうる唯一の兵器は、戦車を中心とする装甲部隊であるとして戦車を非常に重視した。

戦後の戦車の装甲におけるエポックメイクとなったのは、1979年に量産が開始されたレオパルド2戦車である。これまでの被弾経始重視の戦車とはまったく異なり、垂直面で構成された四角い箱のような戦車だったのである。このような装甲になったのにはいくつか理由がある。

第一に、対戦車砲の発達により、砲弾速度がきわめて早くなったために、装甲を傾斜させてもほとんど意味がないということであった。加えて傾斜装甲は、積の割りに車内スペースとして使える容積が少なくなってしまう不便さがあった。ソ連の戦車などは狭すぎて乗員の身長制限があるほどである。  

第二に複合装甲の採用である。それまで外付けの増加装甲で補っていた機能を織り込んだ装甲である。複合装甲は各国で秘密にされているためその正体はいまだはっきりとしていない。概念としては、それまでの通常の鋼板の装甲にセラミックなどの新素材をサンドイッチしたものと考えられている。レオパルド以降の第三世代と呼ばれる戦車にはいずれもこの複合装甲が採用されている。現在ではさらなる防御力強化のため、レオパルド2のショト装甲など、新たな増加装甲が開発されている。

盾と矛の際限のない開発競争は、戦車がある限り今後とも続いていくだろう。
posted by 戦車男 at 21:53| 東京 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月14日

戦車男旅に出る。

ご連絡が遅れましたが、戦車男はただいま旅に出ております。この投稿も旅先からのものです。18日まで更新などが途切れがちになると思いますが、どうかご了承ください。

今後とも「戦車男」をどうぞよろしくお願いします。
posted by 戦車男 at 00:47| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「フランス敗れたり」を読む。

最近、非常に印象深い本を読みましたのでご紹介いたします。前回に引き続き戦車から少々外れますがあしからず。

第二次世界大戦フランスナチス・ドイツの攻撃の前にわずか一ヶ月足らずで崩壊した。この事実は、世界史の中ではドイツ軍の新戦術「電撃戦」の威力のみが強調され、当時のドイツ軍に決してそこまで見劣りしない兵力を持っていたフランス側の原因にはあまり注目されないままでいる。
 
フランス敗れたり』(アンドレ=モーロワ著・高野彌一郎訳)という本がある。フランスの軍人であり文学者であるアンドレ・モーロワ氏が、母国の敗北に際して広くフランス人に訴えた本である。一読してみたが、この本は第二次大戦におけるフランスの悲劇的敗北の本質を明らかにしているとともに、現在の日本に対し非常に意義深い示唆を与えている。本書の紹介を通じて、フランス敗北の原因を示すとともに、同時に日本の亡国を防ぐための材料を提供できればと思う。
 
モーロワ氏は著書の中でフランス敗北の要因として主に以下の3つの点を挙げている。

1. 戦争の準備不足
2. フランス首脳部における不協和
3. ドイツの宣伝戦
この中で氏が最も主張する点は「戦争の準備不足」である。第二次世界大戦が勃発したとき、フランスは戦争のための準備をほとんどしていなかったといっても過言ではない。なるほど確かに強力な防御陣地であるマジノ線は完成し、国境を守る防壁はできていた。    

しかしながら、他の多くの致命的な点でフランスはいくつもの欠陥を抱えていた。有事における行動原則が決まっていないために、開戦後多くの混乱が起こった。兵器の生産を担う工場労働者たちが、開戦とともに疎開してしまい、たとえばルノー(自動車などの総合機械メーカー)の工場などでは、平時でさえ3万人程度の労働者がいるのに、開戦後の従業員は約8千人に激減してしまった。また、ドイツ軍の占領を恐れて住民が勝手に次々に避難をはじめ、道路を避難民が覆い尽くし、交通が麻痺してしまった。倉庫に保管してあった多数の装備も、それを円滑に運用する機構がないばかりに、なかなか前線に届かないでいた
 
だが、深刻だったのはフランスには、戦うための兵器が概して不足していたことである。もっとも状況が悪かったのは航空機である。たとえば、重要な北部方面を担当していた第七方面軍のジロー将軍の自由になる飛行機はわずか八機に過ぎなかった。フランス政府は十社以上の航空会社に飛行機の注文をし、多種多様の飛行機を少数ずつ保有するという非常に効率の悪いことをやっていた。一種の戦闘機をひたすら生産していたドイツとはいい対象である。開戦後、緊急に航空機を補充するため政府はアメリカに発注を行ったのだが、その機数はわずか100機であった。自己の利益のみを考えるフランスの財界人が政府に働きかけ、「国産のほうが安い」という理由で航空機の多数はフランスの工場に発注されたのである。そのために国を安売りする羽目になったのである
その他、戦車、対戦車砲、高射砲、機関銃、トラックなど、前線ではあらゆる物が不足していた。
 
フランスでは、確かにチェコの併合によって決定的になったものの、最後の瞬間までドイツとの戦争は交渉によって避けうるものと思っていた。ナチス・ドイツは虚勢を張っているだけで実際は弱体であると考えられていた。戦争は前大戦と同じく膠直戦になるという前提で長期戦の戦略が立てられた
 
これらの勝手な「思い込み」のために、戦争の準備は次々後回しにされ、どうしようもない状況に陥ってしまったのである。一方のドイツは1933年の再軍備から7年かけて戦争の準備をしてきたのである。
 
このフランスの混乱に拍車をかけたのがフランス首脳部の不協和であり、ドイツの宣伝戦であった。当時、交互に首相・蔵相・外相を務めたダラディエとレノーは、権力争いのためにお互いを非常に嫌悪していた。さらに、開戦時の首相レノーと総司令官ガムラン元帥との間にも攻勢論と守勢論とで軋轢があった。これらフランス内の内紛はイギリスをして「彼らはドイツと戦争する暇がないんだ」「彼らはお互い同士の間で戦争をするのに忙しいから」と言わしめるほどのものであった。
 
ドイツの宣伝戦の狙いは主に英仏を離反させることと、英仏国内の親ナチ者を煽動して破壊工作や情報操作を行うことであった。英仏の離反は、大戦直前まで高い成果を上げていた。ドイツの情報操作により、フランスが強大化するという妄想を抱いたイギリスは、ドイツに援助を与えていた。ドイツの拡大を包囲する目的で作られたストレーザ戦線も、勝手にイギリスがドイツ海軍の増強を認めるという形で崩壊したのである。開戦後の住民のパニックも内部協力者の攪乱よるところが少なからずある。こうしたことによってフランスは戦争準備の不足を取り返すことができず無残に敗北したのだ。
 
以上見てきたことが、フランスの滅亡の原因である。わずか一ヶ月にも満たない戦争でフランスは占領され、不名誉の中、5年間に渡る占領の苦しみを味わったのである。
 
ドイツ軍がパリに入城した1940年5月18日、著者モーロウの知人の、ある老人が自ら命を絶った。かれはこういい残している。
わしはもう生きていることはできない。わしのたった一人の息子は、前の大戦で戦死した。いまの今まで、息子は死んでフランスを救ったのだ、と信じてきた。ところが、フランスは今滅亡じゃ。わしが生きていく目的はなくなった。もう生きてはいけん
 
この瞬間、フランスはフランスが生んだもっとも高貴ある人の一人を失ったのである。日本にこうした人がいまだ残っているのかはわからない。だが後世の日本人を思い国に命をささげた英霊たちのことを考えたとき、われわれ日本人は彼らの思いを裏切ることは決してできないはずだ。
 
現在の日本を取り囲む状況は決して楽観できるものではない。軍事力の拡大を背景にアジアの派遣を狙う共産中国。核兵器を保有する全体主義国家北朝鮮。ますます独裁の傾向を強めるロシア。これらの魔手から日本の滅亡をなんとしても防がねばならない。
 
最後に、モーロウが亡命先のアメリカへ向かう船上で書いた救済策のうち、重要だと思われるものをいくつか挙げることにする。

○強くなること―国民は自由のためにはいつでも死ねるだけの心構えがなければ、やがてその自由を失うであろう。

○世論を指導すること―指導者は民に行くべき道を示すもので、民に従うものではない。

○祖国の統一を攪乱しようとする思想から青年を守ること―祖国を守るために努力しない国民は、自殺するに等しい。

○汝の本来の思想と生活方法を熱情的に信ずること―軍隊を、否、武器をすら作るものは信念である。自由は暴力よりも熱情的に奉仕する価値がある。
posted by 戦車男 at 00:42| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月09日

フィンランドを通じて学ぶ独立の気概

少々戦車からは外れますが歴史に埋もれた事実ですのでご紹介したいともいます。後ほどフィンランドの戦車部隊に関してもご報告したいと思います。


「負けるとわかっていたのならば戦わねばよかった」
「結局敗北したのだから特攻隊をはじめ日本兵の死は無駄であった」

先の大東亜戦争、そしてそこで散華した父祖たちをこのように評価する日本人は非常に多い。しかし、本当にこのように考えてしまってよいのであろうか。学ぶべきものは何もないのだろうか。

ここでひとつの事例を取り上げてみたい。北欧の小国フィンランドである。フィンランドは一九一七年のロシア革命に乗じて帝政ロシアより独立した。独立当初、フィンランドはボリシェビキとドイツ軍という二つの脅威に直面したが、それらの困難をくぐり抜けて、一九一九年に主権在民の共和国憲法を制定し、名実ともに独立を達成した。                         

しかし、フィンランドの平和はわずか二十年しか続かなかった。スターリンのソビエト連邦の復興とその軍事大国化は、フィンランドの独立を脅かすに至った。一九三九年九月、第二次世界大戦が勃発。ソビエトはドイツとの密約によりポーランド東部を占領。さらにソ連はエストニア、ラトビア、リトアニアを併合。次がフィンランドの番であることは誰の目にも明らかであった。十月、スターリンはフィンランド政府に対してモスクワにおける会議への使節派遣を求めてきた。その会議でソ連外相モロトフから使節団に渡された通告は驚くべきものであった。
「フィンランドとの国境は、わがレニングラードからたった三十二キロしかない。自動車で一時間もかからぬ距離である。だからフィンランドは国境をもっと北へ移動させろ。そのかわりラドガ湖北方で二倍の面積の土地をやるから…」

このような通告にフィンランド国民は激怒し、政府の大半の意見も不可侵条約を違反したソ連の不正義を糾弾するものであった。しかし、政府は冷静さを失ったわけではない。妥協案を練り、戦争を回避しようと努めた。だが、スターリンも臨席した十月末の会議で交渉はついに決裂した。会議の後、スターリンはフィンランド独立戦争時の亡命コミュニストО・W・クーシネンを呼び出し、フィンランド人民政府の樹立を命じた。このときスターリンはフィンランド共和国の抹殺を決意したのである。

フィンランド防衛の責任を負うのは、独立戦争に活躍した国民的英雄、マンネルハイム将軍であった。彼はソ連との戦争は極力避けるべきだと主張していたが、ひとたび開戦となれば国を守るため最善の策を考える真の愛国者であった。しかし、大国ソビエト・ロシアと人口三百万人に過ぎない小国フィンランドの国力の差を理解していた将軍の気は重かった。彼我の国力差は圧倒的であり、その兵力差を比で表すと以下のようになる。
常備兵力[51対1]予備兵力[179対1]戦車[32対1]航空機[70対1]砲[33対1](光人社NF文庫『世界戦車戦史』参照)
 
また、ソ連軍がフィンランドに差し向けた兵力は五十万であった。それに対してフィンランドがかき集めた兵力は三十万であり、それはフィンランド全人口の約九パーセントであった。

戦う前から勝敗はわかっていた。負ける戦いを指揮することほどつらいことはない。だが、祖国を守るために立ち上がった国民の姿はマンネルハイム将軍を大いに力つけた。

十一月三十日、ソ連軍はフィンランドに侵攻してきた。ソ連軍は最短距離でフィンランドの首都ヘルシンキを落とすため、カレリア地峡のマンネルハイム・ラインを強引に突破しようと試みた。

マンネルハイム・ライン。それは縦深九〇キロよりなる第一次大戦型の大要塞であった。これをつくるのに莫大な資金がかかったが、フィンランド国民は祖国を守るため必死に金を貯め何年もかけて設営してきたのである。ソ連軍は相手を見くびっていた。強引にマンネルハイム・ラインを突破しようとしたソ連軍は各所で撃破され大きな損害を出した。フィンランド軍は確かに物量で劣ってはいたが、士気も高く、よく訓練されていたし地の利も得ていた。

一九四〇年一月、ソ連側は敗戦を反省し、軍の編成を新たにしてさらに約十万の兵力を加えた。正攻法で要塞を攻め、損害を受けても次々部隊を送り、フィンランド軍を消耗させていった。しかし、フィンランド軍はマンネルハイム・ラインの突破を三月になるまで許さなかった。スターリンは焦っていた。戦争が長引き西側諸国が介入してくることを恐れたからである。実際にソ連は国連から既に除名されていたし、米英仏の援助物資や義勇軍はフィンランドに到着していた。スターリンは開戦前「一週間でヘルシンキを占領し、全フィンランドを制圧する」と豪語していたが、戦争は三ヶ月に及んでいた。

一方このとき、フィンランド側は既に限界に達していた。予備兵力を使い果たし、マンネルハイム・ラインも各所で突破されつつあった。もはや戦いを続けることは不可能であった。

三月六日、フィンランドの使節団は講和を結ぶためヘルシンキを出発した。前述した理由のため、ソビエト側は講和の用意があることを申し出ていたのだ。講和の条件は十月の通告より一層厳しいものであった。しかし、これ以上戦うことのできないフィンランドは条件を飲む以外なく、三月十三日に講和は結ばれた。

結局、この戦争でフィンランドは多くの国土と国民の命を失い敗北した。しかし、国の独立と名誉は守られたのである。フィンランド国民が立ち上がったことが、スターリンの野望を打ち砕いたのだ。

独立を守るため苦闘してきたフィンランド人は、現在でも国家の防衛に対しては真剣である。そしてマンネルハイム将軍をはじめ独立に尽力した父祖に対する限りない敬愛の念が存在する。彼らは戦争に破れはしたが、その思いは今もフィンランドの人々の間に生き続けているのだ。翻って日本を見てみるに、国民の国防意識は皆無と言ってよい。反戦平和の念仏を唱えていれば平和が守れると本気で思っているありさまである。
 立ち遅れて世界の舞台に登場した日本が、列強の侵略に対して国民一致団結して努力した明治時代。アメリカに対して敢然と立ち上がった大東亜戦争。その歴史は忘れ去られた。国難に殉じた烈士勇士、国の存亡の危機を救った偉人たちは、わずかな日本人が知るのみである。
「自らを守れない国を助けてくれる国はない」
 これはマンネルハイム将軍の言葉である。今の日本人に対してもっとも痛烈な一言と言えよう。アメリカの庇護のもと、ただただ平和をむさぼり続けてきた日本人。今こそ日本の歴史を甦らせ、独立の気概を取り戻さねばなるまい。
posted by 戦車男 at 20:05| 東京 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月05日

戦車の装甲@

戦車の大きな特徴といえば、その攻撃力と防御力の強さである。今回はその防御について書いてみよう。

まず、装甲というものが、どのような歴史をたどっていったのか見てみたい。

戦車が登場した当初、装甲板はボルトによってつながれ、形成されていた。装甲は硬い特殊な金属を使う上、砲弾を弾くために厚くなっているため、その工作は非常に難しいのである。だが、ボルト締めの構造は強度的に不安があり、新たな技術が求められた。

それがリベット(鋲)止めの方法であり1920から30年代の戦車に広く使われた。この方法は、鋲によって金属板同士を留める方法であり、当時の船舶や航空機などに広く使われていた。しかしながら、この方法にもいくつかの問題があった。そのひとつは、重い装甲の上に、さらに鋲の重さが加わるために、重量が増加してしまうことであった。さらに、リベットに銃砲弾が命中した際、リベットが車内に飛散し乗員を死傷させるという恐れがあったのである。

以上のような問題を克服するために、1930年代から実用化され始めたのが溶接方式である。装甲と装甲の間に接着剤となる金属を溶かしてくっつける方法である。この方法は第二次世界大戦中に各国の戦車の生産に普及し、現在に至るまで使用されている。

これとほぼ同時に利用され始めたのが、鋳造方式による戦車の生産である。鋳造方式とは、戦車の構造の型に、融解した金属を流し込んで作る方法である。簡単に言えばたい焼きと同じ方法である。この方法の利点は、ただ型に流し込むだけなので、大量生産が可能な点と、曲面の装甲を作るのが容易な点である。鋳造方式以外の装甲板同士をくっつけるやり方では曲面の装甲を製作するのは難しい。一方、この方法の欠点は、複雑な構造は製作できないことと、装甲板の強度が一定にならないことである。とはいえ、第二次世界大戦後も、ソ連(ロシア)を中心に広くこの方法は利用されているので、優れた技術といえよう。

今回は第二次世界大戦までの歴史を見ることにして、次回は第二次大戦後と装甲についての考察を書いてみたいと思う。
posted by 戦車男 at 12:29| 東京 🌁| Comment(1) | TrackBack(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月02日

T34中戦車(ソ連・1941年)

T34.jpg
スマートな戦車である。当時のどの国の戦車と比べても先進性を感じさせるデザインだ。角度のついた装甲版で構成された車体、鋳造方式の砲塔、当時の標準(37mm・50mm)を大きく上回る76mmの大口径砲、踏破性の高い幅広の履帯(キャタピラ)、燃費がよく、どのような燃料にも対応する500馬力ディーゼルエンジン。当然ながら性能も一流で、攻撃力・機動力・防御力のいずれもバランスよく持ち合わせていた。

1941年の独ソ戦勃発によりソ連に侵攻したドイツは、T34に直面したが、これにまともに対抗する兵器を持ち合わせていなかった。陸軍の37mm対戦車砲は、「陸軍御用達のドアノッカー」とあだ名されるようにまでなってしまった。ドイツ軍の主力戦車である3号戦車J型4号戦車D型も性能的に明らかにT34に劣っていた。

対抗手段のないドイツ軍は、T34を「鬼戦車」と呼び、地雷や集束手榴弾による肉薄攻撃、高射砲や大型や砲による砲撃によって戦うしかなく、この現象は「T34ショック」とまで呼ばれることとなった。そして、この戦車に対抗する形で開発されたのが、有名なティーガー戦車パンサー戦車である。3号戦車や4号戦車など既存の戦車も大幅に改良が施され、装甲を増加し、大砲はより大きな物へと載せかえられた。

なかなか新型戦車の開発が進まない技術部に対して、一時はT34のまったくのコピーを生産しろといったこともあったほどである。電撃戦の生みの親、ハインツ・グデーリアンは、撃破されたT34を見て、これこそが理想の戦車だと語ったこともある。

このように、ドイツをはじめとする世界各国に衝撃を与えたT34であるが、この戦車にも初期の段階ではいくつかの弱点があった。その一つは、砲塔が小さくて、戦車長が砲手も兼ねなければならないことであった。そのために周辺警戒が手薄になったし、砲弾の装填速度も各国の戦車に比べると遅かった。また、初期のモデルでは無線の搭載が進んでおらず、戦車の集団的運用には困難があった。独ソ戦初期において、ドイツ軍がなんとかT34に対抗できたのもこの点に負うところが多い。ソ連軍はT34を少数で逐次投入したために、有効な打撃力とすることができなかったのである。あと、もう一点問題を述べるとすれば、T34は粗製乱造がひどかったことである。エンジンが動かないとか砲が割れたとかそういった深刻なことではなかったが、強化ガラスに気泡が浮いて、よく前が見えなかったり、がさつな作りの変速機のため、金槌で叩かなければギアチェンジができないほど硬かったりした

しかしこのような弱点も、1943年に開発されたT34/85(85mm砲搭載の新型砲塔タイプ。従来は76mm砲)の出現によって克服された。大型砲塔の搭載により、乗員が4名から1名増えて5名になり、戦車長が砲手の任務から解放された。その他の細かい弱点も、この改良によって大部分が解決され、第二次世界大戦一の傑作戦車となったのである。

その証拠に、T34は第二次世界大戦のみならず、朝鮮戦争、中東戦争、ベトナム戦争、ユーゴ紛争など、共産圏の標準的兵器として使われ続けたのである。そして一部の後進国だけではあるが、今現在も現役で就役しているT34があるというから驚きである。それほどまでにバランスの取れた優れた戦車なのである。

T34中戦車(1942年型)

全長:    6.75m
車体長:   5.92m
全幅:    3.00m
全高:    2.45m
全備重量: 30.0t
乗員:    4名
エンジン:  V-2-34 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 500hp/1,800rpm
最大速度: 55km/h
航続距離: 280km
武装:    41.5口径76.2mm戦車砲F-34×1 (100発)
        7.62mm機関銃DT×2 (2,394発)
装甲厚:   15〜70mm
posted by 戦車男 at 15:35| 東京 🌁| Comment(9) | TrackBack(1) | 戦車図鑑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月01日

シャーマン中戦車

m4mtk.jpg
はっきりいってこれといった特徴のない戦車である。背が高くずんぐりとした車体。おわんを伏せたような円柱の砲塔。時代遅れのコイルスプリング方式のサスペンション(螺旋状のばねによって支える方式。初期の戦車に多用された)。背の高い車体は敵の的になりやすく、連合軍の兵士たちからは不評であった。

この戦車からは精悍さやたくましさといったものは何も感じられない。平凡な戦車である。その性能も平凡で、当時の主流の75mm砲を装備、31トンの重量で400馬力のエンジンを搭載し、時速40キロメートルの速度であった。ノルマンディー上陸後のドイツ戦車との戦いでは、シャーマン戦車は苦戦を強いられることとなった。その当時のドイツ機甲部隊の主力は、4号戦車、パンサー戦車、3号突撃砲などであったが、シャーマンが互角に戦うことができたのは4号戦車ぐらいであった。ドイツの重戦車ティーガー戦車が出現したときなどは、圧倒的戦力差から、連合軍の戦車兵たちがパニックに陥り、逃げ出すほどであった。

このような戦車が、なぜ主力戦車の座にあり続け、連合軍を勝利に導いたのだろうか。それは、その膨大な生産数と、機械的な信頼性の高さであった。シャーマン戦車はその単一の車種のみで6万輌以上生産されている。平面的な車体の構成と、鋳造(型に鉄を流し込んで生産する方式。曲面の形成が容易で大量生産に向いている)の砲塔により、シャーマンは極めて生産性が高かった。6万という数字は、第二次世界大戦中のドイツのあらゆる種類の戦車の生産数の合計よりも大きい数である。なるほどたしかにシャーマンは個別的なドイツ戦車との戦いで敗れはしたが、圧倒的な数の力で全体的な戦いに勝利したのである。

そしてシャーマンは他の戦車と比べ故障が少なかった。これは自動車生産大国アメリカの技術的な底力に裏打ちされたものだった。そのため、ドイツ軍でさえも鹵獲(遺棄された車両などの取得や、降伏などにより車両などを手に入れること)したシャーマン戦車を好んで利用した。ソ連軍でもレンドリース(武器貸与)されたシャーマンを重用した。第二次大戦後のイスラエルでも、独自の改造を加えられつつも使われ続けたのである。

このような視点からも、戦車という兵器の持つ強さが明らかになろう。つまりカタログデータのみの戦闘力ではなく。その生産性・機械的な信頼性などの要素の考慮である。そういった意味でシャーマン戦車は傑作戦車ということもできるのである。


M4シャーマン中戦車
全長:5.94m
全幅:2.61m
全高:2.74m
重量:31トン
主砲:75mm
機関銃:2
馬力:400
最高速度:40km
posted by 戦車男 at 15:57| 東京 🌁| Comment(7) | TrackBack(0) | 戦車図鑑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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