2005年11月12日

ポーツマスネットワーク記念シンポジウムのお知らせ

私、戦車男が所属する学生中心の若手保守派の会、「磐南総合研究会」が運営する「ポーツマスネットワーク」の主催で、11月19日午後1時半より、千代田区にある学士会館にて記念シンポジウムを行います。

明治の気概〜日本人の可能性〜」のテーマで、四人のパネリストの先生方に熱い議論を交わしていただきます。お招きする先生は、井尻千男(拓殖大学日本文化研究所所長)、加瀬英明(外交評論家・元首相補佐官)、藤岡信勝(拓殖大学教授)、宮崎正弘(評論家)です(敬称略)。

加えて、当日にはスペシャルゲストの先生にもご登場していただく予定です。東京近郊にお住まいの方で、都合のよい方がいましたら、どうぞ参加ください。


ポーツマスネットワークおよび、シンポジウムの詳細は下のHPを見てください。

■「ポーツマスネットワークhttp://www.nichiro-pn.com/

■「磐南総合研究会http://www.wadachi.jp/
posted by 戦車男 at 23:28| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月11日

クルスクの大戦車戦

kursk3.jpg
皆様は「クルスクの戦い」をご存知だろうか。ヒトラーが「ツィタデレ(城塞)作戦」と名づけ、ドイツ軍最後の乾坤一擲の大攻勢となった戦いである。

1943年春スターリングラードの戦いでの敗北から落ち着きを取り戻したドイツ軍は、第三次ハリコフ攻防戦でソ連軍に勝利し、夏の攻勢に向けて気勢を上げていた。ハリコフでの勝利により、ロシア南部のドイツ軍戦線は北側で前進。もとより前方にあった黒海側の南方戦線との関係で、中央部をコの字型に囲むように戦線が形成された(写真参照)。逆にソ連側から言えば、この地域はドイツ軍戦線に対する突出部であった。

この突出した戦線のちょうど中心にあった都市がクルスクであり、この戦いの名前の由来である。ヒトラーはこの包囲下にある獲物に目をつけ、南方軍総司令官のエーリヒ・フォン・マンシュタインに先手を打った攻勢を要求した。一方、マンシュタインはソ連軍に先に攻撃をさせ、軍が疲弊し補給が伸びきったところで一挙に反撃、これを殲滅する作戦を提案した。これが有名な「後の先」作戦であり、その有効性はハリコフの戦いで証明されていた。長期にわたる戦争で相対的に弱体化したドイツ軍には、積極的攻勢はあまりにもリスクが大きいと考えたのである。

だが、ヒトラーはソ連軍にみすみす進撃を許すことを断固として許さなかった。ソ連軍の準備が整う前に攻撃する「先の先」を主張した。マンシュタインは作戦を急ぐという条件でやむなく「先の先」を採用することを認め、作戦は5月に開始されることが決定した。

しかし、戦力の充実や、新型戦車パンターの配備に合わせるため、ヒトラーは作戦を何度も延期した。その間、ソ連軍はドイツ軍の攻勢の情報をキャッチし、クルスク周辺の防備を急ピッチで調え始めていた。結局作戦が実施されたのは7月に入ってからであった。
4499228336.jpg
1943年7月5日、ついにツィタデレ作戦が発動された。南方・中央・北方の三正面、合わせて約300キロにも及ぶ戦線にドイツ軍がなだれ込んだ。だが、作戦の開始直後からドイツ軍は強力な防御陣地にぶつかり、苦戦を強いられた。ソ連軍が建設したパックフロントと呼ばれる防御陣地は、戦車に対する塹壕というのにふさわしいものであった。対戦車壕、対戦車銃、対戦車砲、ダックインした戦車、カチューシャロケット砲、後方の砲兵陣地。あらゆる兵器がドイツ軍の進撃を阻止するために備え付けられ、それは何重にも及んでいた。

7月12日、南方のプロホロフカで彼我合わせて約1500両ともいわれる戦車が激突した。KB重戦車ティーガーに体当たりを行ったり、T34が何十両もの群れを成して飛び掛ったりするような戦車の肉弾戦が繰り広げられた。激しい戦車戦は一日中にも及んだが、結局どちらが勝利したのかわからない状況で、戦いは下火になってしまった。

ドイツ軍が必死でクルスクに取り掛かっているとき、ソ連軍は北方のオリョールで攻勢を開始。西側の連合軍もシチリア上陸作戦を開始した。この報を受けたヒトラーは作戦の中止を宣言。こうしてドイツ軍最後の大規模攻勢は尻切れトンボで終結してしまった。最終的にドイツ軍は各前線で50キロほど前進したに過ぎず、クルスクに到達するにはまだ倍以上の距離を残していた。

この戦いで両軍が動員したおおまかな兵力は、兵員約200万人、戦車4000両、航空機5000機、砲20000門以上と考えられている。私が不思議に思うのは、このような大規模な作戦がなぜ教科書で取り上げられていないのかという疑問である。この作戦の動員数はノルマンディー上陸作戦に匹敵する。むしろよく教科書に取り上げられるシチリア上陸は戦局に大きな影響を与えたと思えない(イタリアはもともと枢軸のお荷物だし、イタリア中部のグスタフラインでほぼ終戦まで戦線が動かなかった)。この事実を世に伝え、広めることが必要であろう。

この作戦以降、ドイツ軍は一方的後退を続けることになる(バルジの作戦を除く)。スターリングラードの戦いが戦局の分水嶺だといわれるが、私はこのクルスクの戦いこそが分水嶺だと思う。マンシュタインは、このクルスクの戦いまで、ドイツの最終的勝利の可能性を確信していたのである。だが、この敗北を受けてその確信は崩壊した。その詳細は彼の著「失われた勝利」に詳細に書かれている。

こういった点からもクルスクの戦いに対する再考が求められる。
posted by 戦車男 at 02:08| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月07日

W号戦車改良案

大戦を通じて活躍したドイツ軍のW号戦車。敵戦車の発展に対抗してさまざまな改良が重ねられましたが、戦争後期における力不足は明らかだったと思います(特に防御力)。戦争後期においても数的に主力であったW号戦車の抜本的な改良案を提示してみたいと思います。

◆案
mk4-1.JPG
@前面装甲板を一枚の傾斜装甲板に変更。
A側面装甲板も傾斜装甲に変更。
B砲塔前面のクラッペを廃止し装甲を増加。かつ、防盾を一気に大型化して、砲塔前面の防御を強化する。
※前部に対する重量過多に対してはW号駆逐戦車ラングのように転輪の強化によって対応する。

以上のように考えてみました。が、前回の「W号戦車」で書いたようにこれではパンターになってしまうのかなと思いました。が、ある程度戦闘力は低くとも生産性が高い「小さなパンター」こそがドイツ軍に必要だったのではないのでしょうか?

posted by 戦車男 at 14:43| 東京 ☀| Comment(8) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月05日

早稲田祭

本日と明日の二日間、早稲田大学にて大学祭が催されます。東京近郊でお暇な方はどうぞいらしてください。模型研究会や戦史研究会などもありますのでいろいろと楽しめるかと思います。
posted by 戦車男 at 14:52| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月01日

プラモデル製作の思い出

img1041446378.jpg
中学のころ、プラモデルの戦車にかなりはまっていました。たしか初めて作ったのがレオパルド1だと思います。といってもただパーツをつないで組み立てただけで非常に稚拙なものでした。

次に作ったのが写真に出ているパンターだと思います。缶スプレーでダークイエローに塗装し、本格的(?)な出来栄えにけっこう感動した記憶があります。その後そのパンターは冬季迷彩と称して白く塗ったり、学校から持ってきたチョークなどでウェザリング(汚し)を施したりと、いろいろな実験に使いました。最終的にはエアガンの射撃の的にしてしまったのですが、少し可哀想だったかなと今思います。

その後、V号突撃砲、ヘッツァー、V号戦車、ブルムベア、ティーガーTを製作しました。この内のV号戦車なのですが、24分の1の大きさで標準のスケール(35分の1)より少し大きく、もともとモーターライズのモデルだったようで、キャタピラや転輪が可動できるタイプでした。このV号戦車を壊れたラジコンと組み合わせて、ラジコン戦車にしようと僕は試みました。

プラモ屋でパテやギア、シャフトなどを購入し、モーター部分はリモコン戦車のモーターを流用しました。プロポは自動車のラジコンの物を流用し車体に組み込みました。三日ほど悪戦苦闘して製作し、やっと完成させることができました。

しかしながら、モーターから動力を伝える起動輪の部分のシャフトの支えの強度が弱く、その部分が壊れてしまいすぐに動かなくなってしまいました。改良して何とか動かそうとはしたのですが結局子供の知恵では不可能でした。

中学三年のとき、エアガン会社の東京マルイから、エアガンが発射できる90式戦車のラジコンを購入しました。自作するよりメーカーが作る確実なものがいいと感じてたからかもしれません。それでも、苦闘してプラモデルを製作した思い出はいいものだったと思います。

まだ、箱すら開けてないキングタイガーが実家に残っているので、また暇があったら作ってみたいと思います。
posted by 戦車男 at 17:58| 東京 ☀| Comment(114) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月31日

ちなみにその時のレジュメです。

『この国のかたち』45 GとF
◆はじめに
「GとF」の中では、欧米の絶対的な存在としての神「GOD」と、日本における相対的な宗教観が描かれている。さらに司馬氏は、近代に入ってキリスト教が世俗化されてからもなお、文学の中に神
学の系統を引き継いだ絶対虚構「FICTION」が相続されていると主張した。この発表の中では、司馬氏の記述を参考にしつつ、欧米のキリスト教の宗教観を、日本の多神教の宗教観と対比して、考察を深めたいと思う。

◆キリスト教の宗教観
@神
万物の創造主であり唯一絶対の神。多神教は未開の地における低級な宗教とされ、迷信だと考えられた。宣教師が全世界に派遣され、積極的に布教がされたのも「未開の地を文明化し、啓蒙する」という使命感があったことに関係する。唯一の存在である神の権威を守るため、戴く神を異にする者や、異なった宗派に対する排他性が非常に強い。米国などにおいて「進化論」と「インテリジェンス・デザイン論(神による創造)」が激しい論争を巻き起こしているのも、ここに原因がある。

A自然観
自然は野蛮で邪悪なものとされ、人間の手によって文明化・克服されるべきものとされた。こういった自然観の要因はキリスト教をはじめ、一神教(イスラム教、ユダヤ教)の発祥の地が、人間の手を加えなければ生活できないような、非常に自然の厳しい土地であったからだと考えられる。万能の神がなぜ「悪」の存在を創造したのかという疑問には、「神の収縮」という神学上の仮説で説明がつく。簡単に言うと、「神の収縮」とは、もともと全世界を覆っていた神が、人間に自由を与えるため自発的に収縮し、その空間にできたのが現在の世界であるという仮説である。それゆえ、神の及ばない範囲であるから現在の世界には悪が存在するのである。逆に言えば、悪を放逐すれば本来の世界を取り戻すことができる。このことからも、自然や悪に対する厳しい態度が理解できる。

B死生観
信者のみが救われる。魂は神の元に昇り、楽園で幸福な生活を送る。

C文化などへの影響
司馬氏が「GとFの土壌から科学がおこった」(『このくにのかたち二』p248)ということについて考えてみたい。

「ヨーロッパの哲学者はギリシア以来、絶対という唯一の虚構を中心におき、それを証明すべく迫っていく営みらしい」(同上p246)という司馬氏の指摘は、以下のドイツの哲学者ヘーゲルの記述を見れば納得がいくと思う。

「世界は偶然や外的原因にゆだねられるのではなく、神の摂理によって支配される」(ヘーゲル著・長谷川宏訳『歴史哲学講義・上』p30)、「わたしたちは、世界史のうちに摂理の理路と、摂理の手段およびあらわれを認識するという課題に真剣にとりくみ、歴史と理性の原理を関連づけなければなりません」(同上p32)。

ずいぶん回り道をしたが、私が言いたいことは、キリスト教の信者たちが、「この世界は神が創造した。だから世界は理性的な摂理によって支配されている。この摂理を証明することによって神の存在は証明されるし、この世界が本来の姿を取り戻す」という考えを潜在的に持っていて、それが科学の様々な法則の発見や技術の開発に結びつき、産業革命を生み出したのだということである。

◆日本の宗教観
@神
多神教であり、その存在は相対的。八百万の神と呼ばれ、あらゆるものが神となる。大別すると自然神と文化神(生活に関わる)に分かれる。自然神には太陽・山・海・川・火や、蛇・狸・狐・鹿などの動物まである。ずば抜けて大きい巨木や落雷を受けて傷ついた大樹が神木とされるケースもある。文化神としては、屋敷神・氏神・村や町の鎮守の神・縁結びの神・死神などが代表的である。また、人間が神になるケースもある。死んで神になり、子孫に祀られるという場合は日本では一般的である。

天皇も現世において最も上位にいる者として神であると考えられた。戦後に、わざわざ「人間宣言」なるものがなされたのは、進駐軍の欧米人が天皇を「GOD」だと勘違いしたからである。神仏習合など、仏教の日本化に見られるように、外来の神は日本の文化に合うように馴致され、既存の神々と共存する。キリスト教が振るわなかったのは、一神教の排他性が日本の曖昧な宗教風土になじまなかったことが考えられる。

A自然観
上記のように、自然には様々な神が宿るため、尊敬・崇拝の対象となり、自然とは調和・共存が図られる。日本はキリスト教の発祥地の風土は異なり、自然が非常に豊かであった。さらに、その一方で、地震・台風・洪水・火山など、自然災害が多い環境であったことも神々が崇拝された要因であるかもしれない。

B死生観
「成仏する」という言葉にあるように、人は死ねば仏となり神になる。天国や地獄、極楽浄土などという概念も存在するがキリスト教に比べると曖昧としたものである。浮遊霊となったり、守護霊となったりするケースもある。共通することは、死者が信仰・崇拝の対象となり、祈りを捧げるとき、霊魂の存在に思いをめぐらすことである。

17世紀、「あなたたち信者は救われる」と説いた宣教師に、日本の民衆が「それなら亡くなった自分のおとうさんやおばあさんは救われないのか」と問い詰めたところ「その通り救われないのだ」と断定をしたところ、人々は声をあげて泣いたという。

このような話に見られる、死者や祖先に対する崇拝が日本の特徴であると考えられる。靖国神社参拝問題も、死者に罪はないとする日本の宗教的風土の影響があるのかもしれない。

C文化などへの影響
文化などへの影響について、司馬氏は「技術というのは汎神論的なこまごまとしたリアリズムの上に立っているから、そのせいで得意芸なのかとも思えたりする」(『このくにのかたち二』p248)というような主張をしている。

私は、日本の宗教はあまりにも生活と一体化し混然としてしまっているので、宗教が一体どこからどこまで影響をあたえているのかという具体的なことは分からない。大まかに分かることで言えることは、外来の文化の優れたところを受け入れ、さらに日本独自の改良を加えるという風土を形作ったということではないだろうか。ここに日本の得意な加工産業の原型を見ることができる。

もう一点加えるとしたら、日本が特定の宗教・神に縛られなかったことで、宗教の世俗化が非常に早い段階で達成され、明治における近代化に何の障害ももたらさなかったことである。ヨーロッパで宗教の世俗化のために多くの犠牲が払われたことを考えると、非常に幸福であると考えざるをえない。

◆総括
宗教は、その国の文化の根幹を成す重要なものである。上で見てきたように、宗教が歴史において大きな影響をあたえ続けたことは明らかである。現代においてもその重要性は変わってはいない。イラク戦争において、すぐに「キリスト教とイスラム教の戦い」という構図が考えられてしまうのがその証左となろう。

宗教が人々を救済し、心のよりどころとなっているのは明らかである。このように正の面ではたらいている分には問題ないのだが、迷信や偏った情熱から対立を招くことがしばしばある。特に一神教の場合には排他的・絶対的な性格からその傾向は顕著である。共存・共栄が課題となっている現代世界において、今後は調和的な東洋宗教が注目されていくのではないのだろうか。

参考文献
司馬遼太郎『この国のかたち二』文春文庫
西尾幹二『国民の歴史』産経新聞社
渡部昇一『日本史から見た日本人・古代編』祥伝社
佐藤優『国家の自縛』産経新聞社
ヘーゲル著・長谷川宏訳『歴史哲学講義・上』岩波文庫
posted by 戦車男 at 19:48| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月25日

大学の授業にて

皆さんには申し送れましたが、私は大学生で、現在早稲田大学政治経済学部で政治学について学んでいます。今日、ゼミ形式の授業で、私が発表の担当でした。司馬遼太郎の「この国のかたち」という本を皆で読んで、担当者が発表すると言う授業です。

担当箇所は「GとF」というタイトルで、西欧の絶対的な神と東洋のあいまいな多神教について論じられている章でした。色々な文献を読んできて、内容の充実したレジュメを作成したのですが、まったく議論が深まらず不活発な授業になってしまい残念でした。普段も不活発な授業なので、面白い授業にしてやろうと意気込んでいたのでしたが、結局失敗に終わりました。

はっきり申し上げますと、今の大学生はぜんぜん勉強していません。遊んでいる人ばかりです。遊ぶことも確かに重要なことですが、学生である以上、学問が本分であってほしいものです。一部、資格試験などに必死になって勉強している人もいますが、本来の大学の性質を考えると、それが本流であってほしくはないです。

以上のようなことを考えた次第です。
posted by 戦車男 at 21:06| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月24日

W号戦車

第二次世界大戦ドイツ軍の主力戦車はどの戦車であっただろうか。ドイツ軍の戦車と聞けばティーガーパンターなどの名前がすぐに挙がってくる。しかし、6年間にわたる大戦を戦い抜いた主力戦車はW号戦車に他ならない。W号戦車の生産は各型式をすべて合わせて約11000輌である。なお、先ほど挙げたティーガーの生産数は約1000輌、パンターでも約6000輌である。W号戦車が数の上からも主力であることは間違いない。では、戦車兵たちから親しまれ。信頼されたW号戦車とはいったいどんな戦車であったのだろうか。

1935年より開発されてきたW号戦車は、もともと、火力支援用の20トンクラスの戦車として開発された。当初は、V号戦車が対戦車戦などをつとめる主力戦車と考えられており、W号戦車は、その支援のとして、強力なトーチカなどを破壊するために開発された。そのため、当時としては大型な75mm砲の搭載が可能なように設計されていた。ちなみに、大戦の初期に活躍したW号戦車D型の性能としては、重量20トン、75mm24口径砲(火力支援用の短砲身)搭載、装甲厚は10mm〜35mmであり、V号戦車E型が、重量19.5トン、37mm46.5口径砲搭載、装甲厚は10mm〜30mmであった。

W号中戦車D型
IV_D_1.jpg

対ポーランド戦、対フランス戦縦横無尽な活躍を見せたドイツ軍機甲部隊であったが、1941年の対ソ戦で、彼らはT34という強力な敵に直面することになった。T34の出現でドイツ軍のV号戦車、W号戦車は一挙に陳腐化し、ドイツ軍は早急に強力な戦車を戦場に送り出す必要に迫られた。新たな戦車を開発すると同時に、既存の戦車を改良することも当然ながら試みられた。V号戦車は実にA型からN型まで改造が続けられたのである。しかしながら、基本設計の点で長砲身の75mm砲を積むことができないV号戦車は、ついにT34に対抗することはできず、1943年の段階で一線を退くことになった

一方、もともと大口径砲を積むことを考慮して生産されたW号戦車は75mm長砲身砲の搭載が可能で、装甲の追加による重量増加にも対応することができた。W号戦車は、1942年から生産されたF型から長砲身の75mm43口径の砲が載せられた。43年から生産されたH型では、さらに砲身を伸ばした75mm48口径砲の搭載が行われた。さらに、対戦車銃や歩兵の対戦車兵器に対応するため、「シェルツェン」という増加装甲が装備された(下の写真を参考)。シェルツェンを装備したW号戦車が、しばしばティーガーと見間違えられ、連合軍の兵士たちを驚かせたことがあったという。以上のような改良によってW号戦車は性能的に完成に至り、T34に対抗することが可能になったのである。

W号中戦車H型
4gouH.jpg

1943年にパンターの生産が開始されたことにより、W号戦車は補助的な車輌となるはずであった。しかし、長年にわたる生産・運用によって培われてきた信頼性や、生産性の高さから、W号戦車の生産は1945年まで続けられた。W号戦車の最終型であるJ型では、逼迫した戦況にあわせて、各部分の簡略化が計られた。砲塔旋回のための補助エンジンが廃止され、マフラーも取り外された。シェルツェンは鉄板から金網に変更された。

ドイツの栄光と敗北のすべてをともにしたW号戦車は、決して性能的に優れていたわけでもなく、ティーガーやパンターのような伝説的な活躍をしたわけではない。しかしながら、ドイツ兵士たちに信頼され「軍馬」と呼ばれ親しまれたのである。


W号中戦車D型
全長:    5.92m
全幅:    2.84m
全高:    2.68m
全備重量: 20.0t
乗員:    5名
エンジン:  マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 200km
武装:    24口径7.5cm戦車砲KwK37×1 (80発)
        7.92mm機関銃MG34×2 (2,700発)
装甲厚:   10〜35mm

IV号中戦車H型

全長:    7.02m
車体長:   5.89m
全幅:    2.88m
全高:    2.68m
全備重量: 25.0t
乗員:    5名
エンジン:  マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最大速度: 38km/h
航続距離: 210km
武装:    48口径7.5cm戦車砲KwK40×1 (87発)
        7.92mm機関銃MG34×2 (3,150発)
装甲厚:   10〜80mm
posted by 戦車男 at 18:47| 東京 ☁| Comment(5) | TrackBack(0) | 戦車図鑑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月19日

ようやく晴れ間が見えました

ここのところ、連日雨が続き、風邪を引いてしまいました。季節の変わり目ですから皆さんもお気をつけください。
posted by 戦車男 at 14:36| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月18日

世界初の戦車戦

ドイツ軍A7V突撃戦車A7V-1s.jpg
1918年4月フランス北部のアミアン東方のカシーに向けて前進を開始した歩兵4個師団を支援するために、A7V突撃戦車15両からなるドイツ軍戦車大隊がその先鋒として進軍した。A7V戦車は故障車1両(資料によっては2両)を出しつつも順調に進撃し、カシーの町まであとわずかのところまで迫っていた。

一方、カシーの町には、ドイツ軍に対する反撃のために英軍の部隊が待機していた。菱形のMKWフィーメイル戦車(メス型、機関銃のみ)2両と、MKWメイル戦車(オス型、6ポンド砲装備)1両がその中に含まれていた。

「ドイツ軍戦線突破」の報を聞いた英軍部隊は、早速戦車隊を反撃に差し向けた。まもなく、歩兵部隊を率いた、ドイツ軍A7V戦車3両が英軍戦車隊の前方に出現した。彼我の距離はおよそ300メートル。両者ほぼ同時に敵を認めたが、ドイツ軍のA7Vが先手を切って発砲。大砲を持たない「フィーメイル」戦車2両があっという間に撃破された。

しかし、残りの1両の菱形戦車が必死の反撃を試み、A7V突撃戦車1両を中破させる。なおも果敢に発砲してくる英軍戦車にひるんだドイツ軍側は部隊を撤退させてしまった。

こうして、史上初に行われた戦車戦は、ドイツ軍側1両中破英軍側2両損壊の結果を持って終了した。なお、中破したA7Vは、いったん乗員が脱出したあと、再度乗り込み、無事に自軍戦線まで帰還している。

英軍MK4菱形戦車(フィーメイル)
201_mark4_02.jpg

posted by 戦車男 at 15:12| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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