2005年12月13日

ハーフトラック

(ドイツ・8トンハーフトラック)
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近代戦はある一面を捉えれば「輸送の戦い」である。近代戦に使われるさまざまな兵器を支えるためには、さまざまな物資が必要である。たとえば戦車の場合には、燃料・オイル・主砲弾・機関銃の弾・整備のための各種部品などが恒常的に必要である。第二次世界大戦では、日本軍は海上輸送をアメリカ潜水艦・航空機に断絶させられ極度な物資不足・食糧難に直面した。ドイツ軍は1941年のバルバロッサ作戦に際して電撃的な進撃を見せたが、補給が間に合わないがためにモスクワを前にして一ヶ月足踏みをしなければならなかった。以上のような例に見られるように、「補給」とは近代戦において非常に重要な要素であることに違いない。

今回の記事では、前線において砲弾や人員の輸送に従事した「ハーフトラック」という、現在では見られない第二次世界大戦固有の車両についてみてみたいと思う。

ハーフトラックとは、車体前部がタイヤ、後部がキャタピラの折衷車両である。不整地での機動力を向上させつつ、ある程度の高速走行能力を持たせ、さらにキャタピラ車より安く製作するという構想で開発された。私がはじめて「ハーフトラック」を知ったとき、私は「半分トラック(貨物車)」という意味だと思っていた。しかし、「トラック(無限軌道・キャタピラ)」という意味なので、皆さんご存知とは思うがご注意を。

ハーフトラックを主に採用した国はドイツとアメリカである。ドイツではSd.Kfz250やSd.Kfz251、2トン、8トン、18トンの各種サイズのハーフトラックが有名である。バイクとキャタピラをくっつけたケッテンクラートという面白いう車両もある。(ちなみに、18トンハーフトラックはティーガー戦車の牽引に使われた)総生産数は25000両程度といわれている。アメリカはM2、M3ハーフトラックが主で約60000両が生産され、ソ連にもかなりの数がレンドリースで提供された。

戦場での評価は非常に高く、他のキャタピラ車である戦車や自走砲などとともに行動が可能な、不整地での追随性が評価されている。加えて牽引力の高さから、ハーフトラックは大砲の牽引車としての役割も果たしてきた。さらにいえば、ハーフトラックは各種特殊車両のベースとしても活用された。高射砲を積んだ対空車両や、ロケットや野砲、迫撃砲を積んだ火力支援車両、対戦車砲を積んだ対戦車車両、偵察車両、戦闘指揮車両などさまざまな派生車両が作られてきた。
(アメリカ・M3ハーフトラック)
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このように隆盛を極めたハーフトラックではあったが、戦後急激に衰退し、今では絶滅してしまった(と思う)。その要因としては2つの点が考えられる。装輪車、キャタピラ車の性能がともに向上(特にキャタピラ車)し、その両者のうまみを採ったハーフトラックの存在意義が薄れたという点。もうひとつは、歩兵に対する防御向上が要求から、前線での歩兵輸送用の車両がキャタピラ車に切り替えられたということである。

初めてハーフトラックを知ったとき、私は非常に効率的な車両であるなと感心したものなのだが、結局はつぎはぎの中途半端な車両だったのだろうか。なんとなく納得できないものがある。
(ドイツ・ケッテンクラート)
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2005年12月08日

ゼミが決まりました。

私事で恐縮ではありますが、来年から取るゼミが決まりました。国際関係と安全保障を専門としている山本武彦先生のゼミに決まりました。

ゼミでは、国際関係と安全保障を「地政学」の視点から見ていきたいと思っています。地政学は日本ではあまり盛んな学問ではではありませんが、欧米では軍事や国際関係を中心に用いられているスタンダードな学問です。

地政学を簡単に言うと「地理的条件と政治の関係を理解する」ということです。国際関係や安全保障は基本的に力と力の関係のリアリズムです。地政学は、そういった国際関係における力のかけ具合や、相手国の弱点、世界の力の流れなどを地理的な観点から分析します。

どうも見ていると教授の研究の方向とは異なりますが、私は以上のような方針で今後大学の勉強を進めていくつもりです。余裕があればその成果もこのブログで紹介したいと思います。
posted by 戦車男 at 16:52| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月07日

日本軍戦車、どうすれば連合軍戦車に対抗できたか?

旧日本軍の戦車に対する評価というものは、日本海軍の機動隊・水雷部隊などの華々しい戦いや、航空隊の活躍に比較するとすこぶる悪いものがある。その原因、背景などについては、以前の記事「旧日本軍戦車に対する一方的断罪を斬る」で多少触れたが、今回の記事ではもう一歩踏み込んで「いかにしたら連合軍(アメリカ)戦車に対抗できたか」ということを考えてみたいと思う。

まず、考察の対象とすべき連合軍(アメリカ)の戦車はM4シャーマンであろう。日本軍はこのシャーマンを「鬼戦車」と呼び、その撃破は、日本軍にとって非常に困難であった。戦車砲や速射砲による待ち伏せでの近接射撃。地雷や梱包爆薬、火炎瓶などを抱えた歩兵による肉薄攻撃などが攻撃の手段であったが、慢性的に重火器が不足していた日本軍では後者が主にならざるを得なかった。戦車に対する攻撃手段が欠如していたがために、有為な若者たちが無謀な攻撃で徒に命を失っていたのである。このことは大いに反省しなければならない。

対抗策として、第一に考えられるのは戦車の強化である。日本軍は47mm砲を搭載した97式中戦車改、1式中戦車を開発するが、シャーマンに対してはあまりにも威力不足であった。そこで、当時のスタンダードであった75mm砲を搭載した3式中戦車が開発されるが、その登場はあまりにも遅すぎかつ数が少なすぎた。4式・5式も開発されたが、実践投入にはまだまだ時間がかかった。以上を見るように、戦車の開発・改良が遅れたという点を考慮しても、新型戦車の投入には、当時の日本の技術ではかなりの時間がかかるということがわかる。戦車で対抗できないとすればどうすればよいのか。同じ戦車弱小国のイタリアに参考となる例がある
(97式中戦車)
97ョ中戦ヤ個体.jpg

すなわち、自走砲の利用である。以前の記事でも紹介したように、自走砲は車体に直接砲をつむため、戦車に比べて大型の砲を搭載することができるし、既存の戦車の車台を流用すればいいので生産も容易である

第二次世界大戦時のイタリア軍の主力戦車はM13 40中戦車であった。この戦車の性能は、32口径47mm砲、装甲厚6〜40mm、重量13.7トン、最高時速30kmで、日本軍の主力である97式中戦車18口径57mm砲、装甲圧10〜25mm、重量15トン、最高時速38kmと同レベルであった。イタリアのM13戦車は北アフリカの戦いでイギリスのクルセーダーやアメリカのシャーマンにコテンパンにやられ、何とか対抗しなくてはならなかった。そこでイタリア軍が考えたのは、貧弱なM13の車台に強力な75mm砲を搭載したセモベンテ自走砲なのである。
(M13 40中戦車)
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(セモベンテ自走砲 改良型)
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セモベンテ自走砲はその攻撃力と防御力で連合軍の戦車に対して善戦し、イタリア兵から高い評価を得ていた。さらにイタリアが敗戦してから後も、ドイツ軍の占領地域でその評価ゆえ生産が続けられたのである。日本も確かに自走砲を開発していたが、本格的な対戦車用で背の低い密閉式の、いわゆる「駆逐戦車」はついに開発しなかった。97式戦車の車台に、3式戦車に搭載された90式野砲をのせて、駆逐戦車を製作するのが、手っ取り早い対抗策になるのではないかと私は強く思うのであるがいかがだろうか。それであれば、1942年の早い段階で開発・製作が完了し、連合軍の反攻作戦が本格化する1944年には、各島嶼に配備が完了できたのではないかと考えている。少なくともフィリピン・沖縄で活躍はできただろう。

もうひとつの対抗策は、歩兵の携行兵器、すなわちパンツァーファーストである1942年にドイツで開発されたパンツァーファーストのノイマン効果(弾頭に火薬をすべてつめるのではなく、あえて先端に空間を設けることで火力集中させ威力を数倍に高める)原理は日本でも研究され夕弾などに応用されていた。ドイツと同盟関係にあったのであれば、その威力は明らかに伝わっていただろうし、開発技術も容易に提供されただろう。

パンツァーファストは、ドイツで大量に生産され、小銃すら足りない中でもふんだんに供給され続けた簡便な兵器である。1945年のベルリンをめぐる攻防で、ソ連はおよそ3000両の戦車を失ったといわれているが、その大半はパンツァーファーストによって撃破されている。生産の容易性、そして実際の威力の点から積極的に導入すべきであっただろうと考えている。ジャングルや険しい地形の多い南方では、近接戦闘をいとわない日本軍の性格も相乗して、大きな戦果をもたらしたであろうと思う。

以上の2点が現実的な対抗策であると思うのだがいかがだろうか?
posted by 戦車男 at 16:17| 東京 ☀| Comment(16) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月04日

あしか作戦の潜水戦車

1940年6月フランスを打ち破ったドイツは、その矛先をイギリスに向けた。だが、イギリスに侵攻するためには、これまでの戦いと違い、海を越えていかなければならない。そのためにドイツ軍は主力のV号戦車に特別な改造を行ったのである。

それは、V号戦車を潜水可能な戦車に改造することであった。輸送船が岸辺に接岸してからいちいち戦車を揚陸していたら時間がかかるし、何よりも敵の眼前でそのような悠長で無防備なことを行っていたら危険極まりない。それゆえに、海岸からある程度はなれたところで船から離れ、各戦車がそれぞれ上陸するほうが安全だろうと考えられたのである。

海岸まで自走する方式について、浮いた状態で進む方式と、海底を這っていく方式とで一度意見が分かれた。浮いた状態のメリットは、沈まないから水密部分を減らすことができることと、吸気・排気の問題を考えなくていいこと、そして、ある程度の火力支援が行えるということであった。潜水するほうは、敵からの攻撃を受けにくい点と、浮くためのバランスを考慮しなくていいということであった。

結局、浮上するためのバランスどりができなかったため、潜水方式が採用された。潜水するために問題となったことは、水が車内に入ってこないようにすることと、エンジンの吸気・排気をどうするかということであった。前者の問題については、戦車にある穴、隙間のすべてをゴムで埋めることによって解決した。ちなみに上陸後、すぐ戦闘が行えるように、それらのゴムは車内からのボタンひとつで火薬の小爆発によって取り外すことができるようになっていた。

もうひとつの問題は解決が難しかった。最初は、吸気は中空のポールを立ててそれを海上に出すということが考えられたが、予想された水深が20から30メートルであったためそれは困難だという結論に至った。そこで考えられたのが、ホースのように柔軟な管を吸気口から伸ばし、その先を水に浮く資材に取り付けるという方式であった。このやり方は実験でも順調で、イギリス上陸作戦の「あしか作戦」に採用された。なお排気はそのまま水中にボコボコと吐き出すことにした。

さっそく約100両のV号戦車がその改造を受けたが、結局あしか作戦は実行されなかった。9月の「バトル・オブ・ブリテン」でルフトバッフェがイギリスの制空権を取ることができず、ヒトラーが作戦を中止したからである。だが、そのうちいくつかの潜水戦車は、1941年の独ソ戦の初めに、ブーク川の渡河に使われ、ソ連装甲車の襲撃を受けた歩兵を救っている。
posted by 戦車男 at 13:44| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月30日

『日本人の歴史哲学』の紹介

今月中旬、私の所属する磐南総合研究会代表岩田温が『日本人の歴史哲学』を出版致しました。今回の記事では、その紹介をしたいと思います。

『日本人の歴史哲学』の目的は、戦後60年間、そして今もなお日本の空気であり続けている左翼の歴史哲学、「東京裁判史観」にかわる歴史観を打ち立てることにあります。

本書では、歴史哲学に対する考察を深めるため、まず古今東西の哲学者の思索を辿りますヘーゲルの自由と精神の歴史哲学、ベルジャーエフの神学的な歴史哲学、E・H・カーの科学的な歴史哲学、坂本多加雄の「来歴」に基づく歴史哲学などです。

次に、こうした「歴史哲学」を体現する場としての「国家」についての考察、そして、行動によって具体的に歴史哲学を実践してきた西郷隆盛や特攻隊などの過去の先人たちを見ていきます。

以上のような思索を踏まえた上で、我々が持つべき「日本人の歴史哲学」についての結論に至ります。

本書の内容は、少々難解ではありますが、代表を中心に会員一丸となって努力した成果であり。非常に読みごたえのある内容と自負しています。もし興味がございましたら、どうぞお手にとって見て下さい。よろしくお願いします!

日本人の歴史哲学―なぜ彼らは立ち上がったのか
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展転社

なお、本書には「からごころ」・「正義の喪失」などで有名な埼玉大学教授の長谷川三千子より、推薦の辞をいただきましたのでご紹介いたします。


(推薦の辞・長谷川三千子)
ただそのまゝ虚空のうちに呑まれ、消え去つたとばかり思つてゐた、自らの語つた言葉、書いた言葉が、思ひもかけず、若々しい声の響きをもつて、こだまとなつて返つてくる―これほど幸せな体験が、またとあらうか。

岩田温氏の著『日本人の歴史哲学』の原稿を送つてもらつたとき、私がまづ感じたのは、さうした素直なよろこびであつた。

しかも、それは決して単なる「こだま」でも「鸚鵡がへし」でもない。かつて私のものであつたそれらの言葉は、その本意を保ちながら、いまや完全に著者自身のものとなつて、その構想のうちにぴたりと位置づけられ、使ひこなされてゐる。それが何よりも嬉しいのである。              
この書の構想は、途方もなく大きなものである。もしこれが、どこかの大学の後期博士課程の学生の博士論文として企画されでもしてゐたら、担当の指導教官は大あわてで、もつと主題を小さく縮小するやうに、と忠告したことであらう。そして、それと同時に書き手の精神も萎縮させられてゐたところだつたであらう。この書が、アカデミズムの小さな柵のうちに囲はれることなく、同世代の若者たちとの間の生き生きとした議論に育まれて生まれ出てきたことを、心から祝福したいと思ふ。

もちろん、各々の分野の専門家が見れば、各章の各節がそれぞれ一冊づつの著書をなすべき大主題であつて、それをこんな風にずばり、ずばりと大づかみにしてゆくのは、荒つぽさのきはみである、と言ひたくもならう。しかし、よく見ると、岩田氏の「大づかみ」は、決して空疎な「大づかみ」ではない。むしろ、その一つ一つの考察は緻密と言つてよいほどであつて、氏の筆は、それぞれの相手、ヘーゲルやホッブズや福沢諭吉らの核心部分に急降下し、鋭い嘴でその髄をつかみ出すのである。

さういふことが可能となつたのも、おそらくは、著者のうちに「精神」といふ言葉が、生きた意味をもつて響きつづけてゐるからであらう。「精神」とは、実体でもなければ、なんらの 教条 ( ドグマ ) でもない。「精神」とは、肉体を有するこの小さな一個の自己が、自国の歴史の或る一瞬に自己を燃焼するとき、そこに閃めく一条の光である。そして著者は、いかなる高名な哲学者や歴史家や歴史上の偉人に対しても、怖めず臆せず、無言のうちにかういふ問ひを突きつけてゐるのである――お前は、本当に「精神」を見ようとしてゐるのか?お前は本当に「精神」をもつて生きたのか?

こんな風に突きつけられてみると、皮肉なことに、「 精神 ( ガイスト ) 」をうたひ文句にかかげ、「 精神 ( ガイスト ) 」の自己展開が歴史なのだと主張するヘーゲルの歴史哲学が、まさにまるで「精神」と無縁なものであることをさらけ出してしまふ。そしてまた、単なる「狂信」に支へられたテロと、大東亜戦争末期に特攻に志願して散つていつた人々との差がどこにあるのかといふことも、このやうな問ひをつきつけることによつて、自づと明らかになるのである。

しかしまた、心のうちに「精神」といふ言葉を大事にかくし持つてゐる者はみな、現代の日本、のみならず現代の世界といふものに対して、或る絶望的な思ひを抱かざるを得ない。この著者のはじめにも、著者は昭和四十五年に書かれた三島由紀夫の言葉「このまま行ったら…(略)…日本はなくなつて、その代りに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」を引き、この予言どほりにことがすすんでゐることを憂へてゐる。けれども、少なくともこの著書を読んだ人々は、三島氏とは違つて、「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない」とは言はずにすむであらう。ここには、すべてが無機的でからつぽになつてしまつた、そのコンクリートをうち破つて顔を出す、「精神」の芽吹きを見て取ることができるのである。


本書の詳細はこちらをご覧下さい。
http://www.nihon-hp.com/
posted by 戦車男 at 17:10| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月27日

再び、日本軍に鹵獲された戦車

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スチュアート軽戦車です。「軽」といっても約15トンあり日本の97式中戦車とあまり変わりません。正面装甲50mm、砲は37mmでも貫通力に優れていました。ビルマ戦線で、鹵獲したスチュアートによってグラント戦車を撃破したという記録があります。また今度、鹵獲戦車についてまとまったものを書いてみたいと重います。
posted by 戦車男 at 23:52| 東京 🌁| Comment(9) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月26日

磐南総合研究会主催「出陣学徒慰霊祭」の開催

来る12月3日に、私が所属しております保守派学生NPO法人・磐南総合研究会が主催致します、「出陣学徒慰霊祭」が靖国神社にて執り行われる予定です。多数の識者の方もご来場されますので、ご都合つきましたらぜひご参列ください。


実施要綱;平成17年12月3日(土)

第一部  出陣学徒慰霊祭記念集会
     靖国神社内靖国会館2階 開場12時30分   開会13時

■代表挨拶 岩田  温

■学生意見表明  木下淳平、早瀬善彦

■識者によるリレートーク形式(一人10分)
(登壇者50音順・敬称略)
井尻千男 (拓殖大学日本文化研究所所長)
板垣正(元参議院議員・日本遺族会顧問)
小堀桂一郎 (東京大学名誉教授)
加瀬英明 (外交評論家)
清水馨八郎 (千葉大学名誉教授)
頭山興助 (呉竹会会長)
西村幸祐(評論家・戦略情報研究所客員研究員)
藤井厳喜 (拓殖大学客員教授)
水島総 (日本文化チャンネル桜社長)
米田建三 (帝京平成大学教授)

第二部 出陣学徒慰霊祭靖国神社参集所16時集会

詳しくは→http://www.wadachi.jp/ireisai/まで!
posted by 戦車男 at 21:15| 東京 ☁| Comment(11) | TrackBack(1) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月22日

ソミュアS35中戦車(1935年・フランス)

ソミュアS35中戦車
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第二次世界大戦でのフランス軍の評価は非常に低いものである。陣地戦・歩兵戦を主とし、旧態依然とした戦略思想。将兵達の低い士気まったく活動を見せなかった海軍。こうした散々な評価を受けているフランス軍であるが、その中にもきらりと光る一面があったことは否定できない。その一つが今回紹介するソミュア戦車である。

フランスはもともと戦車先進国であった。初めて回転砲塔をもつ戦車を開発し、戦車の大量生産にも成功した。しかしながら、「陣地突破、歩兵支援」という、当初の戦車の使用目的にこだわりすぎたために、その後の戦車開発で列強諸国に大きく遅れをとることになってしまった。

当時のフランスで機動戦の主力を担っていたのは騎兵と装甲車であった。しかしながらこれらの部隊は、不整地での行動力、銃弾に対する防御力、堅固な陣地に対する攻撃力などの、いずれもが不足していた。この認識が強くなった1930年台初頭に、騎兵・装甲車に変わる機動力の高い戦車が開発されることになった。それが1935年に開発されたソミュア戦車である。

ソミュア戦車では、主に三つの斬新な技術が盛り込まれた。その一つが、鋳造による車体・砲塔の製作である。これによって従来の平版を組み合わせた戦士より、生産性が向上した。次に、タンク内に特殊なゴムをいれ、被弾して穴が開いたときに自動でその穴をふさぐようにしたことである。もう一つは、サスペンションの保護のためスカート(側面装甲版)を装備したことである。ソミュア戦車にはその後の戦車のスタンダードとなるさまざまな技術がはじめて使用されたのである。

加えて、戦車としての基本性能も、当時としては非常に優れたものであった。主砲の47mm32口径砲は、当時の主流の37mm砲より一回り大きく、500mで58mmの装甲板を打ち抜く威力を持っていた。装甲は前面56mmで傾斜した装甲を持っており、37mmクラスの砲に対する十分な防御力があった。機動力も路上で最大45km/hを出すことができ、まさに走・攻・守のバランスの取れた戦車であり、戦車個体を見れば、ドイツ軍のV・W号戦車よりも優れていたといえる。うわさの領域ではあるが、アメリカのM4シャーマンはソミュアをまねて作られたといわれたほどである。

ドイツ軍のフランス侵攻時、フランス軍は約500両のソミュア戦車を持っていた。しかしながら、フランス軍はこれらのソミュアをホチキスやルノー軽戦車・歩兵に組み合わせて、各個ばらばらの小さい戦闘集団に分割して運用してしまった。そのため集団で襲い掛かってくるV号・W号戦車に各個撃破されたのである。こうしてソミュアはろくな活躍も見せられず、ドイツ軍に撃破または鹵獲されてしまった。ちなみに鹵獲されたソミュアは300両ほどでパルチザン・レジスタンスの掃討、ノルマンディー上陸後の西部戦線で細々と使用された。

独ソ戦争初期のソ連軍も間違った運用で強力なT34を有効活用できずいたずらに失ってしまった。やはり戦車の能力というのは、それを運用する戦略や戦車兵のマンパワーにも大きく依存することがわかる。


ソミュアS35中戦車
全長:    5.38m
全幅:    2.12m
全高:    2.62m
全備重量: 19.7t
乗員:    3名
エンジン:  ソミュア V型8気筒液冷ガソリン
最大出力: 190hp
最大速度: 45km/h
航続距離: 260km
武装:    32口径47mm戦車砲SA35×1 (108発)
        7.5mm機関銃M1931×1 (1,250発)
装甲厚:   20〜56mm



posted by 戦車男 at 15:55| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(1) | 戦車図鑑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月20日

ディエップ上陸作戦

(チャーチル戦車)
チャーチル.bmp
皆さんはノルマンディー上陸以前に連合軍のフランス上陸作戦があったことをご存知だろうか。実は1941年の8月に、イギリス・カナダ軍の連隊、約5000名がフランスのディエップに上陸を行っていたのである。それが今回のタイトル「ディエップ上陸作戦」なのである。この記事ではその作戦の全貌を紹介したいと思う。

バトル・オブ・ブリテン」からほぼ一年が経過し、ドイツの矛先が東のソ連に向いていた1941年夏、イギリス軍は初戦の敗退から息を吹き返し、アメリカの支援を受けて戦力を充実させつつあった。そこでイギリス軍司令部はドイツの隙を突いてフランスに上陸し、威力偵察をおこうなおうと企てた。偵察といっても連隊規模で約5000名の兵力を動員し、あわよくば町のひとつふたつ占領し、ドイツ軍に揺さぶりをかけようという狙いもあった。もちろん上陸軍は、敵の本格的な反撃が行われる前に撤収し、イギリスに戻るという計画であった。

ドイツが広く宣伝した「大西洋の壁」の構築はまだまだ進んでいず、ヒトラースターリンとの喧嘩に夢中になっている今、この強引な上陸作戦はうまくいくだろうとイギリス軍司令部は楽観視していた。

イギリス軍はこの作戦に新兵器を投入した。それは当時のイギリス首相の名を冠した「チャーチル戦車」(写真参照)である。その名前の由来は、チャーチルがこの戦車をいたく気に入り、陸軍司令部の反対を押し切って採用したことにある。チャーチル戦車は防御力が高く、火力も当時の水準に達していたが、重量が重すぎ、機動力が極度に低い戦車であった。このチャーチル戦車には、数メートルの潜水が可能な改造が施された。上陸地点の手前から船を離れることができ、迅速な上陸支援と、生存率の向上が期待された。

1941年8月19日、ディエップ上陸作戦は実行された。上陸に際してのドイツ軍の反撃はほとんどなかったが、海岸に仕掛けられたドイツ軍の罠が、チャーチル戦車の前進を妨害した。チャーチル戦車は、海岸に掘られたドイツ軍の対戦車壕にはまり身動きが取れなくなってしまったのである。その大重量のため、砂地にはまり込んでしまった車両まである。さらに、潜水装置がうまく作動せず、海に潜ったはいいがそのまま水没してしまった悲惨な車両もあった

戦車を含む重火器は海岸で身動きがとれずなかなか前進することができなかった。歩兵のみが前進を開始し最寄の町へ進軍したが、火力支援が皆無だった。一方、連合軍の上陸を察知したドイツ軍は反撃を開始し、軽装の連合軍を再び海岸に追いやった。海岸まで進軍したドイツ軍の戦車・対戦車砲は壕や砂にはまっているチャーチル戦車を狙い撃ちにした。身動きできないチャーチルは海岸に残骸をさらした。

かくして、楽観された上陸作戦は見るも無残な結果に終わった。上陸した英・加連合軍のうち、イギリスに帰ることができたのはわずか数百名にすぎない。ドイツ軍の海岸への急接近により、艦船の接岸による撤収が不可能だったからである。大半の兵士はドイツ軍の捕虜になってしまった。

この作戦で、連合軍はあまりにも大きい代償を支払うことになったが、上陸作戦に対する慢心をなくし、砂浜の突破や潜水改造などの技術的な教訓を得ることができた。一方ドイツ軍は、敵の上陸作戦に対する慢心を抱いてしまったのである。その結果は1944年のノルマンディー上陸作戦で証明されることとなった。
posted by 戦車男 at 23:04| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月14日

アクセス5000突破!!!

123031.jpg
(ケーニヒス・ティーガー)
サイト開設から約3ヶ月、ついにアクセス5000を突破しました!次は10000に向けてがんばっていきます。これからも「戦車男」を応援お願いします。
posted by 戦車男 at 15:30| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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