2005年12月18日

北方領土問題についての概説

先日行った、私の所属する磐南総合研究会の勉強会で発表しました、北方領土問題についてのレジュメです。北方領土問題の経緯、日露両国の立場について、コンパクトにまとめてみました。興味がありましたらご覧ください。
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(北方領土を視察する小泉首相

□北方領土問題とは
◆歴史的経緯(『重光晶「北方領土」とソ連外交』時事通信社参照、以下本書からの引用)

・19C、樺太や択捉島以北の千島列島にロシア人が進出し、日本人と接触が始まる。

・1855年「日露通商友好条約」締結。択捉島以北の千島列島をロシア領とし、以南を日本領とする。樺太島に関してはとりあえず日露混住とし、後に境界線を決めることとされた。

・1875年「千島樺太交換条約」締結。樺太全島をロシア領とし、「クリル群島」すなわち占守島から得撫島までの島々は日本領とすることに合意。
※交換されたのはあくまで「クリル群島」であり、北方4島はこの時樺太と交換で領有したわけではない。

・1905年「ポーツマス条約」締結。北緯50度以南の樺太が日本に割譲された。

・1945年8月9日、ソ連対日戦に参戦。10日南樺太に侵攻、18日(停戦決定後!)千島列島に侵攻。15日の終戦後もソ連は侵略を続け、9月中に全樺太・千島列島を占領した。ちなみに日本軍が戦闘行動を中止した15日時点でソ連軍は樺太の50度線から20キロ進んだに過ぎない。占守島に上陸したソ連軍も一度撃退されており、千島列島の占領が本格化したのは日本軍の武装解除後だった。

1946年2月、「南サハリン州」を設置し、一方的に占領地域をソ連領に併合。

1951年「サンフランシスコ平和条約」締結。日本は千島列島及び南樺太を放棄することと定められたが、その帰属先は明記されなかった。さらに、「千島列島」の範囲が米英ソ日など関係主要国の間ではっきりと決められなかった。なお、ソ連は、南樺太の返還と千島列島の引渡しを要求したが認められず、これを不満としてサンフランシスコ平和条約を締結しなかった。

1956年、「日ソ共同宣言」日本は最低限度として固有の領土である4島返還を要求。しかし、ソ連は2島返還によって領土問題の解決を求めた(2島は北方領土の総面積のわずか7パーセントに過ぎない!北方4島の面積は約5000平方キロメートルであり、千葉県と同じくらいの広さがある)。日本は抑留者の問題や国連加盟の問題をこれ以上放置できなかったため、やむをえず領土問題を棚上げにして国交を回復。平和条約は結ばれていない。すなわち、日露両国は領土問題に関しては未だ戦争中である。

以降、領土問題に関して顕著な進展なし。
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(北方領土地図)

◆「北方領土問題」ソ連(ロシア)の立場(と反駁)
ヤルタ協定における米英ソ三国での合意(南樺太の返還、千島列島の引渡しを英米ソで合意)
→少なくとも北方4島に関しては日本固有の領土であり、ソ連も参加したカイロ宣言・ポツダム宣言の領土不拡大の原則に反する。さらにサンフランシスコ平和条約2条C項(ソ連に領土が与えられることは書かれなかった)の成立により、米英のヤルタ協定における合意は取り消されたとみなされる。

・「サンフランシスコ平和条約で日本は領土を放棄した」という主張。
→帰属は決定していないし、千島列島の範囲も未確定。1954年、米国はソ連にあてた書簡の中で、「北方四島は千島列島に含まれない」と記述。それ以前にソ連はサンフランシスコ平和条約を締結していない。(p41参照)

・参戦に伴うソ連の犠牲に対する対価、日本への懲罰。
→ソ連との戦闘はわずか一週間足らずであり、大半は終戦後かすめとった領土である。加えて日本に対する参戦の理由もでっち上げの中立条約違反である。でまかせ、はったり。

・「すでにソ連のものになっているから諦めろ」という主張。ドイツにおいて東プロイセンを奪う際に、この方式が成功したため日本に対しても主張。ただし、これはドイツが分裂したため、平和条約が現実問題として結べないこと、加えて両ドイツが領土の返還要求をしていないことが根底にある。

以上が北方領土問題の経緯とそれぞれの立場である。
posted by 戦車男 at 15:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月11日

現代日本外交における米国との関係

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今回の記事は戦車とは少し話がずれるが、普天間の基地移設問題などで、最近ホットな話題となっている日米関係について、私の意見を述べてみたいと思う。

二位以下の国々を大きく引き離して世界一を誇るGDP。世界のすべての国を合わせたよりも強力な力を持つ軍隊。先進国の中で最も広く豊かな国土。これらの条件を持つ国は即ちアメリカである。
 
我が国は、このアメリカと強力な同盟関係にあり、さらに軍事に限らず貿易や民間交流も非常に盛んである。それゆえ我が国の外交は日米関係を基調としたものになるのが必然である。
 
しかしながら2001年の9.11以来、アフガニスタンイラクと、テロに対する戦いに突入していくアメリカに、右派左派に関わらず批判の声をあげる勢力が国内に増大しているのが日本の現状ではないのだろうか。共産・社民などに代表される、左翼の相変わらずの反帝国主義的主張は相手にしないとして、旧来の親米派である保守派における反米的傾向の要因について考察してみたい。それによっていかに反米派が誤っているかを立証してみたい。
 
反米派は、「アメリカが大義なき戦争を行っている」という。すなわち国連を無視した戦争であり、自国の国益のため石油を狙った戦争であり、大量破壊兵器も見つからなかったアメリカの言いがかりの戦争だというのである。これらの主張は、たしかに事実ではある。だが、こういった表面的事実とは他に、アメリカの長期的なストラテジーや、打倒されるべきフセインの独裁体制テロリストたちの実情というものを我々は考えなければならない。
 
第一点として、アメリカの長期的ストラテジーであるが、これはH・キッシンジャーの「外交」を読むと非常にわかりやすく、詳しく知ることができる。私なりにその要旨を述べると、ウィルソン以降のアメリカ外交というものは、外交の根底に正義や道徳を置き、それを世界に拡大していこうという方針なのである。すなわちキリスト教的背景からこれを言えば「enlightenment」、すなわち「啓蒙していく」ことである。
具体的な例としては、ウィルソンの作った国連、第二次世界大戦におけるファシズムとの戦い(日本に対するアメリカの挑発的戦争に関しては、私は容認してはいないし、そもそも当時の日本が完全なファシズム体制であったかというのは非常に疑問視される問題である。)、冷戦における共産主義者たちとの戦い、などである。
 
このアメリカの正義の押し付けに対して、反発を持つ人々は非常に多い。彼らの論理は、「それぞれの国にはそれぞれの国のやり方があるのだから、民主主義の押し付けは良くない、さらに暴力による押し付けはもっと良くない」といったものである。もちろん、私も民主主義が万能だとは決して思ってはいない。だが、民主主義が現在のところ最善の政体であるというのは認めざるをえない事実であるし、アメリカがその攻撃の対象としているのは圧政を行っている国家だけである。
 
では、第二点として圧政を行う国家について考察してみよう。例えば、ナチスドイツは、国家政策としてユダヤ人を迫害し、計画的に500万人ものユダヤ人を虐殺した。ユダヤ人迫害はナチスドイツの崩壊まで継続され、外国の介入なしには決して解決はされなかっただろう。全体主義国家は国内に対して非常に強固である。北朝鮮を見ればそのことが明らかな事実であることがわかるはずだ。軍・政治を牛耳り、秘密警察を作り、通信・交通を独占し、密告によって反乱者を未然に防ぐ。よって全体主義国家の内からの崩壊はなかなか期待できない。ナチスドイツ、ポルポトのカンボジア、ソ連、いずれも外からの圧力があってはじめて崩壊に至ったのである。
 
これら圧政を行っている国家に対して、「それぞれの国の事情」という理由で不介入を主張するのは、いじめを見てみぬふりをするのとまったく同じで、不道徳であるといわざるをえないだろう。
 
以上のような理由で、私はアメリカの戦争に大義がないという主張が誤っていると考える。アメリカがなぜ北朝鮮や中国を差し置いてイラクを目標にしたのかということは、やむをえない理想と現実との折り合いである。実利がなければ国民はついてこないし、大量破壊兵器を実際に保有している国を攻めることは困難だからである。
 
反米派の人々の主張する外交方針として、アメリカを捨て、中国や韓国などと連帯する「アジア主義」を主張する人々がいる。だが、私はこの方針に対して非常に懐疑的である。

まず、中国は共産主義の全体主義国であり、基本的に日本とは性質的に敵対する国家である。さらにいえば、中国は、一時的には日本との連帯を歓迎するかもしれないが、中国の長期的な目標はアジアの覇権を獲得することであり、この点からも日本に敵対するものである。

次に、中国・韓国ともども、国家政策として「反日」を一貫して掲げており、これを取りやめないかぎり、真の友好を築くことはできない。
以上がアジア主義に対する反論である。
 
保守派の人々は、第二次世界大戦でのアメリカによる加害から、反米になりがちであるともいえる。しかしながら、そういった感情をこえて今現在親米を貫くことが、日本の国益に合致するのであるし、日本の主体的な政策方針として客観的にも最善の道なのである。
posted by 戦車男 at 11:12| 東京 🌁| Comment(4) | TrackBack(1) | 小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月09日

フィンランドを通じて学ぶ独立の気概

少々戦車からは外れますが歴史に埋もれた事実ですのでご紹介したいともいます。後ほどフィンランドの戦車部隊に関してもご報告したいと思います。


「負けるとわかっていたのならば戦わねばよかった」
「結局敗北したのだから特攻隊をはじめ日本兵の死は無駄であった」

先の大東亜戦争、そしてそこで散華した父祖たちをこのように評価する日本人は非常に多い。しかし、本当にこのように考えてしまってよいのであろうか。学ぶべきものは何もないのだろうか。

ここでひとつの事例を取り上げてみたい。北欧の小国フィンランドである。フィンランドは一九一七年のロシア革命に乗じて帝政ロシアより独立した。独立当初、フィンランドはボリシェビキとドイツ軍という二つの脅威に直面したが、それらの困難をくぐり抜けて、一九一九年に主権在民の共和国憲法を制定し、名実ともに独立を達成した。                         

しかし、フィンランドの平和はわずか二十年しか続かなかった。スターリンのソビエト連邦の復興とその軍事大国化は、フィンランドの独立を脅かすに至った。一九三九年九月、第二次世界大戦が勃発。ソビエトはドイツとの密約によりポーランド東部を占領。さらにソ連はエストニア、ラトビア、リトアニアを併合。次がフィンランドの番であることは誰の目にも明らかであった。十月、スターリンはフィンランド政府に対してモスクワにおける会議への使節派遣を求めてきた。その会議でソ連外相モロトフから使節団に渡された通告は驚くべきものであった。
「フィンランドとの国境は、わがレニングラードからたった三十二キロしかない。自動車で一時間もかからぬ距離である。だからフィンランドは国境をもっと北へ移動させろ。そのかわりラドガ湖北方で二倍の面積の土地をやるから…」

このような通告にフィンランド国民は激怒し、政府の大半の意見も不可侵条約を違反したソ連の不正義を糾弾するものであった。しかし、政府は冷静さを失ったわけではない。妥協案を練り、戦争を回避しようと努めた。だが、スターリンも臨席した十月末の会議で交渉はついに決裂した。会議の後、スターリンはフィンランド独立戦争時の亡命コミュニストО・W・クーシネンを呼び出し、フィンランド人民政府の樹立を命じた。このときスターリンはフィンランド共和国の抹殺を決意したのである。

フィンランド防衛の責任を負うのは、独立戦争に活躍した国民的英雄、マンネルハイム将軍であった。彼はソ連との戦争は極力避けるべきだと主張していたが、ひとたび開戦となれば国を守るため最善の策を考える真の愛国者であった。しかし、大国ソビエト・ロシアと人口三百万人に過ぎない小国フィンランドの国力の差を理解していた将軍の気は重かった。彼我の国力差は圧倒的であり、その兵力差を比で表すと以下のようになる。
常備兵力[51対1]予備兵力[179対1]戦車[32対1]航空機[70対1]砲[33対1](光人社NF文庫『世界戦車戦史』参照)
 
また、ソ連軍がフィンランドに差し向けた兵力は五十万であった。それに対してフィンランドがかき集めた兵力は三十万であり、それはフィンランド全人口の約九パーセントであった。

戦う前から勝敗はわかっていた。負ける戦いを指揮することほどつらいことはない。だが、祖国を守るために立ち上がった国民の姿はマンネルハイム将軍を大いに力つけた。

十一月三十日、ソ連軍はフィンランドに侵攻してきた。ソ連軍は最短距離でフィンランドの首都ヘルシンキを落とすため、カレリア地峡のマンネルハイム・ラインを強引に突破しようと試みた。

マンネルハイム・ライン。それは縦深九〇キロよりなる第一次大戦型の大要塞であった。これをつくるのに莫大な資金がかかったが、フィンランド国民は祖国を守るため必死に金を貯め何年もかけて設営してきたのである。ソ連軍は相手を見くびっていた。強引にマンネルハイム・ラインを突破しようとしたソ連軍は各所で撃破され大きな損害を出した。フィンランド軍は確かに物量で劣ってはいたが、士気も高く、よく訓練されていたし地の利も得ていた。

一九四〇年一月、ソ連側は敗戦を反省し、軍の編成を新たにしてさらに約十万の兵力を加えた。正攻法で要塞を攻め、損害を受けても次々部隊を送り、フィンランド軍を消耗させていった。しかし、フィンランド軍はマンネルハイム・ラインの突破を三月になるまで許さなかった。スターリンは焦っていた。戦争が長引き西側諸国が介入してくることを恐れたからである。実際にソ連は国連から既に除名されていたし、米英仏の援助物資や義勇軍はフィンランドに到着していた。スターリンは開戦前「一週間でヘルシンキを占領し、全フィンランドを制圧する」と豪語していたが、戦争は三ヶ月に及んでいた。

一方このとき、フィンランド側は既に限界に達していた。予備兵力を使い果たし、マンネルハイム・ラインも各所で突破されつつあった。もはや戦いを続けることは不可能であった。

三月六日、フィンランドの使節団は講和を結ぶためヘルシンキを出発した。前述した理由のため、ソビエト側は講和の用意があることを申し出ていたのだ。講和の条件は十月の通告より一層厳しいものであった。しかし、これ以上戦うことのできないフィンランドは条件を飲む以外なく、三月十三日に講和は結ばれた。

結局、この戦争でフィンランドは多くの国土と国民の命を失い敗北した。しかし、国の独立と名誉は守られたのである。フィンランド国民が立ち上がったことが、スターリンの野望を打ち砕いたのだ。

独立を守るため苦闘してきたフィンランド人は、現在でも国家の防衛に対しては真剣である。そしてマンネルハイム将軍をはじめ独立に尽力した父祖に対する限りない敬愛の念が存在する。彼らは戦争に破れはしたが、その思いは今もフィンランドの人々の間に生き続けているのだ。翻って日本を見てみるに、国民の国防意識は皆無と言ってよい。反戦平和の念仏を唱えていれば平和が守れると本気で思っているありさまである。
 立ち遅れて世界の舞台に登場した日本が、列強の侵略に対して国民一致団結して努力した明治時代。アメリカに対して敢然と立ち上がった大東亜戦争。その歴史は忘れ去られた。国難に殉じた烈士勇士、国の存亡の危機を救った偉人たちは、わずかな日本人が知るのみである。
「自らを守れない国を助けてくれる国はない」
 これはマンネルハイム将軍の言葉である。今の日本人に対してもっとも痛烈な一言と言えよう。アメリカの庇護のもと、ただただ平和をむさぼり続けてきた日本人。今こそ日本の歴史を甦らせ、独立の気概を取り戻さねばなるまい。
posted by 戦車男 at 20:05| 東京 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月31日

旧日本軍戦車に対する一方的な断罪を斬る!

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旧日本軍の戦車に対するイメージを人々に尋ねてみたところで、大体の場合、「わからない」とか、「知らない」といわれるのが関の山であろう。たとえもし、イメージを持っている人がいても、たいてい「装甲が薄いブリキ戦車」、「鉄の棺桶」といったようなとても悪いイメージである。

非常に有名な小説家に、司馬遼太郎氏がいる。彼の読者であればご存知ではあると思うが、司馬氏は戦時中、戦車連隊に所属していた。彼はそこでの経験から、自身の著書の中でしばしば戦車について触れている。しかし、そこで描かれる旧日本軍戦車のイメージは、上記のような悪いものであり、それが一般的イメージになってしまったのである。では、当時の日本の主力戦車であった97式中戦車を通じて、その断罪について考察してみよう。

97式中戦車の登場した1938年の当時、その性能は決して世界から立ち遅れたものではなかった。その主砲も、装甲も、エンジン、車体等、カタログデーターからしても当時の世界において第一級の戦車であった(97式の短砲身主砲57mmに対して当時の主流は30〜50mmで、装甲厚は同様に25mmに対し10mm〜30mm程度、エンジンはディーゼル200馬力に対しガソリン100〜300馬力、重量は約15トンに対し10トンから20トンであった)。

このような第一級の戦力を持った日本の戦車が、なぜ世界水準から立ち遅れあれほどまでの汚名を着せられてしまったのであろうか。その要因は大きく分けて2つある。

1つは、日本が戦車技術を発達させるべき手ごわい敵や、強力な戦車を必要とする状況に直面しなかったことである。確かに、ノモンハンでは日本は痛い目にあったが、結局、日本の当面の主敵はシナであった。彼らに対してはせいぜい機関銃程度を防げる装甲を持ちさえすればよく、またシナ戦線においては拠点戦闘が主であり、そのためには対戦車戦に向いた長砲身砲ではなく、歩兵・陣地に対して破壊力のある大口径の単身砲が向いていたのである。

大東亜戦争に入っても、その状況には大差はなく、植民地に配備されていた装甲車両に特に苦しめられるということはなかった。さらに、大東亜戦争においては、基本は南方の島嶼攻略・防衛であり、ジャングルの茂る島嶼での戦車の価値は低く重視されなかった。重い戦車はそれだけ輸送にコストがかかり敬遠された。

このように、日本が戦車の改良を必要としない状況にあった中、世界の戦車技術の発達は今までにないテンポで進んでいた。特に独ソ間での戦車の発達は極めて著しいものであった。1939年の第二次世界大戦の開戦からその中盤となる1943年までに、日伊を除く列強各国の主力戦車は、戦車の強さの目安となる重量だけ見ても、10〜20トン程度から30〜40トン程度の倍増していた。日本だけが技術発達から遠く取り残されてしまった。これが二つ目の要因である。

確かに日本が技術を軽視し、簡単な増加装甲の取り付けや、砲の換装を怠ったことは否めない。ドイツから拝借したノイマン効果の砲弾の技術も、もっと早くに実用化すべきであった。たとえ強力な戦車や対戦車砲がなくとも、ドイツのパンツァーファストのようなものが開発されていれば、アメリカのM4シャーマン相手に地雷を抱いた特攻をせずにすんだだろう。こういった事実は反省して余りあることである。

しかしながら、当時、戦車を実用化し、国産した国はいくつあっただろうか。有色人種の中で国産に成功したのは日本だけであるし、一時的にせよ世界の第一級の性能を誇ったのである。反省は強く胸に刻みつつも、こういった日本の偉大さも忘れてはならないだろう。今の視点からひたすら怠けていた、レベルが低かったと卑下するのはあまりにも尊大な態度ではないだろうか。そういった点から司馬氏の断罪を承服しかねるのである。
posted by 戦車男 at 22:58| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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