2006年01月30日

戦車のサスペンション

大重量の戦車を支える足回りは非常に重要なものである。走行中の乗員の快適性戦車の耐久性に大きく関係するし、主砲発射後の動揺を抑える性能は、砲の発射速度に直接繋がってくるからだ。ということで、今回は戦車のサスペンションについてみてみたい。

戦車の登場当初、走行や射撃による衝撃を吸収するサスペンションというものは装備されていなかった。そのために、車内の振動はすさまじく、乗員は壁に頭をぶつけても大丈夫なように保護帽やヘルメットを装備していた。初期の戦車は速度も遅く、大きな砲をつんでいるわけでもないので、それでもよかったのだが、次第に速度が速くなってくると、振動や衝撃は無視できなくなってきた。そこでサスペンションが採用されたのである。

初期のサスペンションの多くはコイルスプリング、またはリーフスプリング(板バネ)方式であった。コイルスプリングは写真にあるように、われわれが一般的に「バネ」と認識しているもので、このバネが伸縮することによって衝撃を吸収する。コイルスプリングを採用した戦車としては、ルノーFTやシャーマン戦車などがある。

(コイルスプリング)コイルスプリング.jpg

リーフスプリング方式は、金属の板を重ねたサスペンションで、それらの金属の板が、圧力に対して元に戻ろうとする力によって衝撃を吸収する。このサスペンションの特徴は、金属の板を重ねるという単純な構造のため、圧力の大きさに応じて減衰力(衝撃吸収)を容易に調整できるということ、そして強度が高いということである。今もリーフスプリングサスペンションは使われているが、主にトラックや建設機械など、耐久性が要求される車両に使われている。

(リーフスプリング)
板バネ.jpg

そして、現在の戦車の主流となっているのがトーションバー(捻り棒)方式のサスペンションである。コイルスプリングは、構造上、大重量を支えるサスペンションとしてふさわしくなく、リーフスプリングでは減衰力にいまひとつ不足があったのだ。トーションバーを口で説明するの難しいが、簡単に説明すると、車体の底に一本の棒を通し、その先端にスイングアーム(転輪を支えるアーム)が付いている。転輪に力が加われば、スイングアームが動くのだが、車体に固定された棒(トーションバー)が捻られまいと反発する。それによって減衰力を得るのだ。

(トーションバー)049-005.jpg

最初にトーションバーを採用したのはドイツでV号戦車であった。トーションバーはその後各国で採用され、主流となったのである。トーションバーの弱点としては、車体の底に棒を通さなければならないので車高が高くなってしまうことである。

もうひとつ言及しておかなければならないサスペンションは、油圧式のサスペンションである。これは、液体の出口のない注射器を想像していただければわかりやすい。このサスペンションの特徴としては、中のオイルの量を調整することによって車高や減衰力を容易に調整することができる点である。このシステムは世界に先駆けてわが国の74式戦車が採用したのである。
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2005年12月20日

戦争映画

(映画「メンフィス・ベル」)
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先日、光人社ノンフィクション文庫の『リアル・グットウォー』という本を読んだ。内容は、第二次大戦中、ドイツ本土爆撃を行うアメリカ航空隊の若者たちを描いたものである。当時のアメリカ空軍爆撃隊は、35回の爆撃ミッションをこなした兵士たちを帰国させるというルールになっており、若者たちは、その35回のカウントダウンに全集中力を注ぎ込み、肉体的にも精神的にも過酷な日々を送っていた。彼らが爆撃に使った「B-17」は「空の要塞」といわれ重武装を誇ったが、爆撃機に乗っている側の人間にしたら、戦闘機の出現を抑えることはできないし、高射砲の弾幕をくぐれるかも運しだいである。一回一回のミッションを乗り切れるかが彼らのすべてだったといってもいいだろう。

そういった本を読んだ経緯で、昨日、同様のテーマを扱った戦争映画「メンフィス・ベル」を見た。その中ではまさに、『リアル・グットウォー』で読んだ世界が広がっていた。眠っているクルーたちを起こし、ミッションにいざなうハングマン(死刑執行人)、ブリーフィングでの緊張した空気、高射砲の弾幕・戦闘機の襲撃など、上空での激しい戦闘、これらの光景がありありと描かれていた。

作品の内容については、まとまりがなくいまいちであったが、当時の雰囲気を知ることができたように思った。

その他、私がここ近年で見た戦争映画は「プライベートライアン」、「スターリングラード」、「パールハーバー」、「バルジ大作戦」、「ヒトラー」(含めていいのか?)などである(あまり映画を見てない・・・)。

(映画「バルジ大作戦」)
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戦車に絡めてコメントを述べると、どれも偽物(特にドイツ軍)ばかりで作り物がばればれである。「プライベートライアン」のティーガーはT-34の改造が丸わかりで心苦しかったが、ケッテンクラートが走っている映像を見ることができたのは感動だった。バルジ大作戦はドイツ側も連合軍も米軍戦車ということでリアリティーが感じられない部分もあった。映画において、服装や火器などの小道具はかなり忠実に再現されるのに、戦車などの大道具がいい加減になってしまうのは何とかしてもらいたいものである。確かに金がかかるが、知っている人が見たら一番違和感を感じてしまうところだろう。

(映画「プライベートライアン」)
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上記の映画で私が一番印象を受けたのは最近公開された「ヒトラー」である。軍事関係の見所はそこまで多くはないが(軍装や小火器、88mmも出たか)、ヒトラーを中心にすえた崩壊間際の第三帝国の人間模様が興味深い。映画全体の雰囲気としては、ひとつの歴史小説を読んでいるようで、アメリカ映画にありがちな、単純なドラマ的な展開はなく、淡々と史実が描かれている。一見の価値ある映画だと思う。

映画についてあまり詳しくないので、何かお勧めの映画がありましたら教えていただきたい。



posted by 戦車男 at 20:37| 東京 ☀| Comment(9) | TrackBack(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月15日

ハーフトラックA

調達本部さん、十津川さんより興味深いコメントがあったので、それに答えつつ、前回書ききれなかった点を補って今回の記事にしたいと思う。

まず、主なハーフトラック利用国であるドイツとアメリカの比較をしてみたい。垂直面で構成された簡素なM3と、ハンドルに連動してキャタピラの制動がなされる、凝った構造のドイツのハーフトラックでは、確かに「質」と運用の思想に大きな違いがあったと思う。

アメリカの場合は、当初は弾薬輸送、後に兵員輸送を目的として開発された。そのため、ある程度の装甲と不整地行動力をハーフトラックに求めたであろうが、とにかく機甲師団、歩兵師団にかかわらず配備するため、大量にそろえることが前提であった。それゆえ性能が凡庸でも、単純な構造で生産性の高い車両に仕上げたのであると思う。

ドイツの場合は、調達本部さんのコメントの指摘にあるように、機甲師団の兵員輸送や弾薬運搬、砲の牽引を目的に開発されたため、戦車などの追随可能な、路外での不整地機動力が求められた。それゆえ、性能向上のため、エンジン・操縦装置・キャタピラ(路上での行動力向上のためゴムパッドがつけられた)・車体構造が複雑になったのだろう。もちろん、効率を考えないドイツ的な機械へのこ「こだわり」が影響したのはいうまでもないだろう。これは、ティーガー戦車マウス80cm列車砲グスタフなどに見られるし、ポルシェ博士などはその権化である。

アメリカの場合、大量生産の方針はおおむね成功を収めたといえるが、やはり路外での機動力、そして市街戦などでの防御力が不足で問題視された。それゆえ戦後に、前線での兵員輸送は防御力・機動力の高い密閉式のキャタピラ車になり、後方での輸送は軽快な装輪車になったのであろう。中途半端なハーフトラックに両方の任務を行わせるより、それぞれの任務に特化した車両を使う方が効率的である。

ドイツの場合は、機甲師団とその他の部隊とでハーフトラックの種類が分かれていたといえるが、いずれも構造が複雑で量産に向かない。慢性的な輸送力不足であったことを考えれば、性能が高くて複雑な構造の車両を使うよりも、とにかく数をそろえることが重要であったのではないだろうか。特に輸送車両の場合は、戦闘に直接関係ないので、数が一番優先されるはずだ。例えば10両の97式中戦車は1両の90式戦車に勝つことはできないが、10両のジープは1両のハマーに輸送量で勝つことができるのだ。
posted by 戦車男 at 16:48| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハーフトラックA

調達本部さん、十津川さんより興味深いコメントがあったので、それに答えつつ、前回書ききれなかった点を補って今回の記事にしたいと思う。

まず、主なハーフトラック利用国であるドイツとアメリカの比較をしてみたい。垂直面で構成された簡素なM3と、ハンドルに連動してキャタピラの制動がなされる、凝った構造のドイツのハーフトラックでは、確かに「質」と運用の思想に大きな違いがあったと思う。

アメリカの場合は、当初は弾薬輸送、後に兵員輸送を目的として開発された。そのため、ある程度の装甲と不整地行動力をハーフトラックに求めたであろうが、とにかく機甲師団、歩兵師団にかかわらず配備するため、大量にそろえることが前提であった。それゆえ性能が凡庸でも、単純な構造で生産性の高い車両に仕上げたのであると思う。

ドイツの場合は、調達本部さんのコメントの指摘にあるように、機甲師団の兵員輸送や弾薬運搬、砲の牽引を目的に開発されたため、戦車などの追随可能な、路外での不整地機動力が求められた。それゆえ、性能向上のため、エンジン・操縦装置・キャタピラ(路上での行動力向上のためゴムパッドがつけられた)・車体構造が複雑になったのだろう。もちろん、効率を考えないドイツ的な機械へのこ「こだわり」が影響したのはいうまでもないだろう。これは、ティーガー戦車マウス80cm列車砲グスタフなどに見られるし、ポルシェ博士などはその権化である。

アメリカの場合、大量生産の方針はおおむね成功を収めたといえるが、やはり路外での機動力、そして市街戦などでの防御力が不足で問題視された。それゆえ戦後に、前線での兵員輸送は防御力・機動力の高い密閉式のキャタピラ車になり、後方での輸送は軽快な装輪車になったのであろう。中途半端なハーフトラックに両方の任務を行わせるより、それぞれの任務に特化した車両を使う方が効率的である。

ドイツの場合は、機甲師団とその他の部隊とでハーフトラックの種類が分かれていたといえるが、いずれも構造が複雑で量産に向かない。慢性的な輸送力不足であったことを考えれば、性能が高くて複雑な構造の車両を使うよりも、とにかく数をそろえることが重要であったのではないだろうか。特に輸送車両の場合は、戦闘に直接関係ないので、数が一番優先されるはずだ。例えば10両の97式中戦車は1両の90式戦車に勝つことはできないが、10両のジープは1両のハマーに輸送量で勝つことができるのだ。
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2005年12月13日

ハーフトラック

(ドイツ・8トンハーフトラック)
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近代戦はある一面を捉えれば「輸送の戦い」である。近代戦に使われるさまざまな兵器を支えるためには、さまざまな物資が必要である。たとえば戦車の場合には、燃料・オイル・主砲弾・機関銃の弾・整備のための各種部品などが恒常的に必要である。第二次世界大戦では、日本軍は海上輸送をアメリカ潜水艦・航空機に断絶させられ極度な物資不足・食糧難に直面した。ドイツ軍は1941年のバルバロッサ作戦に際して電撃的な進撃を見せたが、補給が間に合わないがためにモスクワを前にして一ヶ月足踏みをしなければならなかった。以上のような例に見られるように、「補給」とは近代戦において非常に重要な要素であることに違いない。

今回の記事では、前線において砲弾や人員の輸送に従事した「ハーフトラック」という、現在では見られない第二次世界大戦固有の車両についてみてみたいと思う。

ハーフトラックとは、車体前部がタイヤ、後部がキャタピラの折衷車両である。不整地での機動力を向上させつつ、ある程度の高速走行能力を持たせ、さらにキャタピラ車より安く製作するという構想で開発された。私がはじめて「ハーフトラック」を知ったとき、私は「半分トラック(貨物車)」という意味だと思っていた。しかし、「トラック(無限軌道・キャタピラ)」という意味なので、皆さんご存知とは思うがご注意を。

ハーフトラックを主に採用した国はドイツとアメリカである。ドイツではSd.Kfz250やSd.Kfz251、2トン、8トン、18トンの各種サイズのハーフトラックが有名である。バイクとキャタピラをくっつけたケッテンクラートという面白いう車両もある。(ちなみに、18トンハーフトラックはティーガー戦車の牽引に使われた)総生産数は25000両程度といわれている。アメリカはM2、M3ハーフトラックが主で約60000両が生産され、ソ連にもかなりの数がレンドリースで提供された。

戦場での評価は非常に高く、他のキャタピラ車である戦車や自走砲などとともに行動が可能な、不整地での追随性が評価されている。加えて牽引力の高さから、ハーフトラックは大砲の牽引車としての役割も果たしてきた。さらにいえば、ハーフトラックは各種特殊車両のベースとしても活用された。高射砲を積んだ対空車両や、ロケットや野砲、迫撃砲を積んだ火力支援車両、対戦車砲を積んだ対戦車車両、偵察車両、戦闘指揮車両などさまざまな派生車両が作られてきた。
(アメリカ・M3ハーフトラック)
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このように隆盛を極めたハーフトラックではあったが、戦後急激に衰退し、今では絶滅してしまった(と思う)。その要因としては2つの点が考えられる。装輪車、キャタピラ車の性能がともに向上(特にキャタピラ車)し、その両者のうまみを採ったハーフトラックの存在意義が薄れたという点。もうひとつは、歩兵に対する防御向上が要求から、前線での歩兵輸送用の車両がキャタピラ車に切り替えられたということである。

初めてハーフトラックを知ったとき、私は非常に効率的な車両であるなと感心したものなのだが、結局はつぎはぎの中途半端な車両だったのだろうか。なんとなく納得できないものがある。
(ドイツ・ケッテンクラート)
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2005年12月07日

日本軍戦車、どうすれば連合軍戦車に対抗できたか?

旧日本軍の戦車に対する評価というものは、日本海軍の機動隊・水雷部隊などの華々しい戦いや、航空隊の活躍に比較するとすこぶる悪いものがある。その原因、背景などについては、以前の記事「旧日本軍戦車に対する一方的断罪を斬る」で多少触れたが、今回の記事ではもう一歩踏み込んで「いかにしたら連合軍(アメリカ)戦車に対抗できたか」ということを考えてみたいと思う。

まず、考察の対象とすべき連合軍(アメリカ)の戦車はM4シャーマンであろう。日本軍はこのシャーマンを「鬼戦車」と呼び、その撃破は、日本軍にとって非常に困難であった。戦車砲や速射砲による待ち伏せでの近接射撃。地雷や梱包爆薬、火炎瓶などを抱えた歩兵による肉薄攻撃などが攻撃の手段であったが、慢性的に重火器が不足していた日本軍では後者が主にならざるを得なかった。戦車に対する攻撃手段が欠如していたがために、有為な若者たちが無謀な攻撃で徒に命を失っていたのである。このことは大いに反省しなければならない。

対抗策として、第一に考えられるのは戦車の強化である。日本軍は47mm砲を搭載した97式中戦車改、1式中戦車を開発するが、シャーマンに対してはあまりにも威力不足であった。そこで、当時のスタンダードであった75mm砲を搭載した3式中戦車が開発されるが、その登場はあまりにも遅すぎかつ数が少なすぎた。4式・5式も開発されたが、実践投入にはまだまだ時間がかかった。以上を見るように、戦車の開発・改良が遅れたという点を考慮しても、新型戦車の投入には、当時の日本の技術ではかなりの時間がかかるということがわかる。戦車で対抗できないとすればどうすればよいのか。同じ戦車弱小国のイタリアに参考となる例がある
(97式中戦車)
97ョ中戦ヤ個体.jpg

すなわち、自走砲の利用である。以前の記事でも紹介したように、自走砲は車体に直接砲をつむため、戦車に比べて大型の砲を搭載することができるし、既存の戦車の車台を流用すればいいので生産も容易である

第二次世界大戦時のイタリア軍の主力戦車はM13 40中戦車であった。この戦車の性能は、32口径47mm砲、装甲厚6〜40mm、重量13.7トン、最高時速30kmで、日本軍の主力である97式中戦車18口径57mm砲、装甲圧10〜25mm、重量15トン、最高時速38kmと同レベルであった。イタリアのM13戦車は北アフリカの戦いでイギリスのクルセーダーやアメリカのシャーマンにコテンパンにやられ、何とか対抗しなくてはならなかった。そこでイタリア軍が考えたのは、貧弱なM13の車台に強力な75mm砲を搭載したセモベンテ自走砲なのである。
(M13 40中戦車)
ハ真m13-40.jpg
(セモベンテ自走砲 改良型)
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セモベンテ自走砲はその攻撃力と防御力で連合軍の戦車に対して善戦し、イタリア兵から高い評価を得ていた。さらにイタリアが敗戦してから後も、ドイツ軍の占領地域でその評価ゆえ生産が続けられたのである。日本も確かに自走砲を開発していたが、本格的な対戦車用で背の低い密閉式の、いわゆる「駆逐戦車」はついに開発しなかった。97式戦車の車台に、3式戦車に搭載された90式野砲をのせて、駆逐戦車を製作するのが、手っ取り早い対抗策になるのではないかと私は強く思うのであるがいかがだろうか。それであれば、1942年の早い段階で開発・製作が完了し、連合軍の反攻作戦が本格化する1944年には、各島嶼に配備が完了できたのではないかと考えている。少なくともフィリピン・沖縄で活躍はできただろう。

もうひとつの対抗策は、歩兵の携行兵器、すなわちパンツァーファーストである1942年にドイツで開発されたパンツァーファーストのノイマン効果(弾頭に火薬をすべてつめるのではなく、あえて先端に空間を設けることで火力集中させ威力を数倍に高める)原理は日本でも研究され夕弾などに応用されていた。ドイツと同盟関係にあったのであれば、その威力は明らかに伝わっていただろうし、開発技術も容易に提供されただろう。

パンツァーファストは、ドイツで大量に生産され、小銃すら足りない中でもふんだんに供給され続けた簡便な兵器である。1945年のベルリンをめぐる攻防で、ソ連はおよそ3000両の戦車を失ったといわれているが、その大半はパンツァーファーストによって撃破されている。生産の容易性、そして実際の威力の点から積極的に導入すべきであっただろうと考えている。ジャングルや険しい地形の多い南方では、近接戦闘をいとわない日本軍の性格も相乗して、大きな戦果をもたらしたであろうと思う。

以上の2点が現実的な対抗策であると思うのだがいかがだろうか?
posted by 戦車男 at 16:17| 東京 ☀| Comment(16) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月04日

あしか作戦の潜水戦車

1940年6月フランスを打ち破ったドイツは、その矛先をイギリスに向けた。だが、イギリスに侵攻するためには、これまでの戦いと違い、海を越えていかなければならない。そのためにドイツ軍は主力のV号戦車に特別な改造を行ったのである。

それは、V号戦車を潜水可能な戦車に改造することであった。輸送船が岸辺に接岸してからいちいち戦車を揚陸していたら時間がかかるし、何よりも敵の眼前でそのような悠長で無防備なことを行っていたら危険極まりない。それゆえに、海岸からある程度はなれたところで船から離れ、各戦車がそれぞれ上陸するほうが安全だろうと考えられたのである。

海岸まで自走する方式について、浮いた状態で進む方式と、海底を這っていく方式とで一度意見が分かれた。浮いた状態のメリットは、沈まないから水密部分を減らすことができることと、吸気・排気の問題を考えなくていいこと、そして、ある程度の火力支援が行えるということであった。潜水するほうは、敵からの攻撃を受けにくい点と、浮くためのバランスを考慮しなくていいということであった。

結局、浮上するためのバランスどりができなかったため、潜水方式が採用された。潜水するために問題となったことは、水が車内に入ってこないようにすることと、エンジンの吸気・排気をどうするかということであった。前者の問題については、戦車にある穴、隙間のすべてをゴムで埋めることによって解決した。ちなみに上陸後、すぐ戦闘が行えるように、それらのゴムは車内からのボタンひとつで火薬の小爆発によって取り外すことができるようになっていた。

もうひとつの問題は解決が難しかった。最初は、吸気は中空のポールを立ててそれを海上に出すということが考えられたが、予想された水深が20から30メートルであったためそれは困難だという結論に至った。そこで考えられたのが、ホースのように柔軟な管を吸気口から伸ばし、その先を水に浮く資材に取り付けるという方式であった。このやり方は実験でも順調で、イギリス上陸作戦の「あしか作戦」に採用された。なお排気はそのまま水中にボコボコと吐き出すことにした。

さっそく約100両のV号戦車がその改造を受けたが、結局あしか作戦は実行されなかった。9月の「バトル・オブ・ブリテン」でルフトバッフェがイギリスの制空権を取ることができず、ヒトラーが作戦を中止したからである。だが、そのうちいくつかの潜水戦車は、1941年の独ソ戦の初めに、ブーク川の渡河に使われ、ソ連装甲車の襲撃を受けた歩兵を救っている。
posted by 戦車男 at 13:44| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月20日

ディエップ上陸作戦

(チャーチル戦車)
チャーチル.bmp
皆さんはノルマンディー上陸以前に連合軍のフランス上陸作戦があったことをご存知だろうか。実は1941年の8月に、イギリス・カナダ軍の連隊、約5000名がフランスのディエップに上陸を行っていたのである。それが今回のタイトル「ディエップ上陸作戦」なのである。この記事ではその作戦の全貌を紹介したいと思う。

バトル・オブ・ブリテン」からほぼ一年が経過し、ドイツの矛先が東のソ連に向いていた1941年夏、イギリス軍は初戦の敗退から息を吹き返し、アメリカの支援を受けて戦力を充実させつつあった。そこでイギリス軍司令部はドイツの隙を突いてフランスに上陸し、威力偵察をおこうなおうと企てた。偵察といっても連隊規模で約5000名の兵力を動員し、あわよくば町のひとつふたつ占領し、ドイツ軍に揺さぶりをかけようという狙いもあった。もちろん上陸軍は、敵の本格的な反撃が行われる前に撤収し、イギリスに戻るという計画であった。

ドイツが広く宣伝した「大西洋の壁」の構築はまだまだ進んでいず、ヒトラースターリンとの喧嘩に夢中になっている今、この強引な上陸作戦はうまくいくだろうとイギリス軍司令部は楽観視していた。

イギリス軍はこの作戦に新兵器を投入した。それは当時のイギリス首相の名を冠した「チャーチル戦車」(写真参照)である。その名前の由来は、チャーチルがこの戦車をいたく気に入り、陸軍司令部の反対を押し切って採用したことにある。チャーチル戦車は防御力が高く、火力も当時の水準に達していたが、重量が重すぎ、機動力が極度に低い戦車であった。このチャーチル戦車には、数メートルの潜水が可能な改造が施された。上陸地点の手前から船を離れることができ、迅速な上陸支援と、生存率の向上が期待された。

1941年8月19日、ディエップ上陸作戦は実行された。上陸に際してのドイツ軍の反撃はほとんどなかったが、海岸に仕掛けられたドイツ軍の罠が、チャーチル戦車の前進を妨害した。チャーチル戦車は、海岸に掘られたドイツ軍の対戦車壕にはまり身動きが取れなくなってしまったのである。その大重量のため、砂地にはまり込んでしまった車両まである。さらに、潜水装置がうまく作動せず、海に潜ったはいいがそのまま水没してしまった悲惨な車両もあった

戦車を含む重火器は海岸で身動きがとれずなかなか前進することができなかった。歩兵のみが前進を開始し最寄の町へ進軍したが、火力支援が皆無だった。一方、連合軍の上陸を察知したドイツ軍は反撃を開始し、軽装の連合軍を再び海岸に追いやった。海岸まで進軍したドイツ軍の戦車・対戦車砲は壕や砂にはまっているチャーチル戦車を狙い撃ちにした。身動きできないチャーチルは海岸に残骸をさらした。

かくして、楽観された上陸作戦は見るも無残な結果に終わった。上陸した英・加連合軍のうち、イギリスに帰ることができたのはわずか数百名にすぎない。ドイツ軍の海岸への急接近により、艦船の接岸による撤収が不可能だったからである。大半の兵士はドイツ軍の捕虜になってしまった。

この作戦で、連合軍はあまりにも大きい代償を支払うことになったが、上陸作戦に対する慢心をなくし、砂浜の突破や潜水改造などの技術的な教訓を得ることができた。一方ドイツ軍は、敵の上陸作戦に対する慢心を抱いてしまったのである。その結果は1944年のノルマンディー上陸作戦で証明されることとなった。
posted by 戦車男 at 23:04| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月07日

W号戦車改良案

大戦を通じて活躍したドイツ軍のW号戦車。敵戦車の発展に対抗してさまざまな改良が重ねられましたが、戦争後期における力不足は明らかだったと思います(特に防御力)。戦争後期においても数的に主力であったW号戦車の抜本的な改良案を提示してみたいと思います。

◆案
mk4-1.JPG
@前面装甲板を一枚の傾斜装甲板に変更。
A側面装甲板も傾斜装甲に変更。
B砲塔前面のクラッペを廃止し装甲を増加。かつ、防盾を一気に大型化して、砲塔前面の防御を強化する。
※前部に対する重量過多に対してはW号駆逐戦車ラングのように転輪の強化によって対応する。

以上のように考えてみました。が、前回の「W号戦車」で書いたようにこれではパンターになってしまうのかなと思いました。が、ある程度戦闘力は低くとも生産性が高い「小さなパンター」こそがドイツ軍に必要だったのではないのでしょうか?

posted by 戦車男 at 14:43| 東京 ☀| Comment(8) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月18日

世界初の戦車戦

ドイツ軍A7V突撃戦車A7V-1s.jpg
1918年4月フランス北部のアミアン東方のカシーに向けて前進を開始した歩兵4個師団を支援するために、A7V突撃戦車15両からなるドイツ軍戦車大隊がその先鋒として進軍した。A7V戦車は故障車1両(資料によっては2両)を出しつつも順調に進撃し、カシーの町まであとわずかのところまで迫っていた。

一方、カシーの町には、ドイツ軍に対する反撃のために英軍の部隊が待機していた。菱形のMKWフィーメイル戦車(メス型、機関銃のみ)2両と、MKWメイル戦車(オス型、6ポンド砲装備)1両がその中に含まれていた。

「ドイツ軍戦線突破」の報を聞いた英軍部隊は、早速戦車隊を反撃に差し向けた。まもなく、歩兵部隊を率いた、ドイツ軍A7V戦車3両が英軍戦車隊の前方に出現した。彼我の距離はおよそ300メートル。両者ほぼ同時に敵を認めたが、ドイツ軍のA7Vが先手を切って発砲。大砲を持たない「フィーメイル」戦車2両があっという間に撃破された。

しかし、残りの1両の菱形戦車が必死の反撃を試み、A7V突撃戦車1両を中破させる。なおも果敢に発砲してくる英軍戦車にひるんだドイツ軍側は部隊を撤退させてしまった。

こうして、史上初に行われた戦車戦は、ドイツ軍側1両中破英軍側2両損壊の結果を持って終了した。なお、中破したA7Vは、いったん乗員が脱出したあと、再度乗り込み、無事に自軍戦線まで帰還している。

英軍MK4菱形戦車(フィーメイル)
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2005年10月12日

世界の戦車博物館

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戦車好きに限らず、愛好家というものは実物・本物を実際に見たくなるのが性だろう。日本の戦車の場合、自衛隊国内にあるいくつかの博物館で見ることができるが、人気のあるドイツ軍戦車のなど場合は、見に行くのだけでもかなりの苦労だ。しかしながら、「いつかは見に行きたい」と思っている方、「戦車博物館とは?」と思っている方に、いくつか有名な博物館を紹介してみたい。

ボービントン戦車博物館
イギリスのロンドンにある実質的に世界最大の戦車博物館。保有するAFVの総数は250台を超える。コレクションの中心はイギリス陸軍の車両だが、第2次世界大戦中のドイツ戦車も数多く所有している。
URL:http://www.tankmuseum.org.uk/

アバディーン戦車博物館
アメリカ東海岸メリーランド州、アバディーンにある戦車博物館。屋外に白くペイントされた数々のAFVが展示されている。エレファント重駆逐戦車や台車に乗せられた128mmツインFlakなど大型のAFVから日本の戦車までコレクションが幅広い。
URL:http://www.ordmusfound.org/

ソミュール博物館
パリから電車で約2時間のソミュールにある全世界のAFVファンあこがれの戦車博物館。第1次世界大戦中の車輛から現代の車輛まで常設展示が約120台。また、実際に稼動する戦車が多数あることで有名だ。バックヤードにレストア中のを含めて約500台もの車輛を所有している。
URL:http://www.musee-des-blindes.asso.fr/

クビンカ博物館
8棟からなる展示棟で構成された巨大な兵器博物館。現用車両を含め約300両の車両が展示されている。大戦中ドイツ軍から捕獲した車両も多数あり、中でもドイツのマウス重戦車を所有している事で有名である。
URL:http://www.tankmuseum.ru/

ロシア中央軍事博物館
ロシアの首都モスクワの東北部に存在する、ロシアの軍事技術の総決算的な博物館。T34/76、T34/85をはじめとするロシア軍AFVのほとんど全てがここに展示されている。自走砲や自走ロケット発射機、現用車両も数多く所有している。

ソミュール博物館においてエンジン始動するティーガーU
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2005年09月25日

自走砲A

ドイツ軍マーダーU自走砲(分類Aただし対戦車砲装備)
マーダー.jpg
前回の記事に引き続き、自走砲についてみてみよう。まずは前回便箋的に分類した@(陣地突破のための自走砲。破壊力のある大口径の火砲を積み防御力が高い。ドイツ軍では「突撃砲」と呼ばれる)とB(対戦車砲を載せ、戦車を撃破するための自走砲。貫通力のある長砲身の砲を積み、防御力も概して高い。ドイツ軍では「駆逐戦車」と呼ぶ)の分類の自走砲を見ることにする。

前回の記事では、「自走砲は第二次世界大戦の始まりとともに、三つの種類に分化する」と言ったが、正確には、@の陣地突破のための自走砲が、次第にその性能を買われて対戦車任務もこなすようになり、@からBにだんだんと変化していったと言うべきであろう。

例を見てみよう。ドイツ軍のV号突撃砲は、当初、陣地突破を主眼に開発されたため、貫通力よりも陣地や歩兵に対する破壊力を重視した75mm24口径長の太く短い砲を搭載した。しかしながら、後に対戦車任務をこなすため、W号戦車H型と同じ75mm48口径長の砲を搭載したのである。

また、面白いこととしては、ドイツ軍において、「突撃砲」は戦車部隊ではなく砲兵部隊の所属であったということである。したがって突撃砲の乗員も戦車兵ではなく砲兵である。ドイツの有名な戦車兵、ミヒャエル・ヴィットマンも、もともとはV号突撃砲の乗員で砲兵である。

そのため、戦車と同じ働きを期待できる自走砲を戦車部隊の管理下に置けなくて困った司令部は、「駆逐戦車という名で自走砲の生産・配備を行ったのである。そういった所属の面でも@の突撃砲とBの駆逐戦車では性格が異なるのである。つまり@突撃砲は、陣地突破・火力支援が主であり対戦車任務が従であったのに対し、B駆逐戦車は対戦車任務が主であったのである。

ただし、実際のところは、攻勢的な陣地突破や火力支援の任務は大戦の後期には減少したため、突撃砲も戦車代わりに対戦車任務に引っ張られることが頻繁であったということを一言述べておかねばなるまい。

背が低く前面装甲も厚い突撃砲は防御力が高く、おまけに戦車並みの対戦車砲を積んでいるため、対戦車戦闘では戦車以上の働きを見せることもあった。ソ連の戦車兵に「わが軍のいかなる兵器もV号突撃砲に対抗することができない」と言わしめたほどであった。

次にA(牽引式の砲に機動力をつけた自走砲。用途に応じて各種様々な砲を積むが、榴弾砲が多い。装甲は薄い)の自走砲であるが、これは、軍の機械化に伴って、それまでの牽引式の砲にも機動力とある程度の防御力を付加しようという考えからきている。そのため運用一般に関しては従来の大砲と大差がないのである。前線の後方に、砲列ならぬ車列を並べ火力支援を行うのが任務である。従来の牽引式の砲と比べ展開速度が速いのは言うまでもない。

ドイツ軍が投入した自走砲の威力を見せ付けられた世界各国も、既存の戦車の車体を利用して、次々に自走砲を開発し実戦に投入した。ソ連のT34の車体を利用したSU85、アメリカのM4を利用したプリーストなどである。イタリア・日本・イギリスなどの主要各国もそれぞれ自走砲を開発した。

このように隆盛を極めた自走砲であったが、大戦の終結とともに次第にその数は少なくなっていってしまった。そして、現在ではAの分類の自走砲以外の自走砲は、おそらく絶滅してしまったのである。その理由としては、駆逐戦車として発展した自走砲は、あまりにその任務に特殊化してしまったために、複雑多様化した現代戦に対応できなくなったこと。加えて、自走砲はあくまで戦車の補填としての存在のため、戦車が足りている平時ではあまり必要がないからだと考えられる。逆に言えば、戦車が一台でも必要な有事には、生産が容易な自走砲がまた姿を現すのかもしれない。

posted by 戦車男 at 22:34| 東京 🌁| Comment(5) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月22日

自走砲@

進軍した部隊が急力な敵陣地に遭遇したらどうするだろうか。手持ちの兵器ではどうしようもない場合、大砲をひっぱてきて攻撃するしかない。しかし、重い大砲をひっぱてくるのは面倒であるし、銃弾飛び交う前線では非常に困難なことである。それならば最初から大砲を自動車の上に載せてしまえばいい、さらにいえば塹壕を乗り越えられ、銃弾にも耐える戦車の車体部分に載せればいい。こういった発想から生まれたのが自走砲である。

この自走砲が実用化されたのは、ドイツ軍においてで、1940年のフランス戦に本格的に投入され始めた。V号戦車の車体を利用し、それに大口径の7.5cm砲を搭載したものであり、V号突撃砲と呼ばれた。砲の火力と戦車の防御力を兼ね備えた自走砲は固定陣地に対して絶大な威力を発揮した。

V号突撃砲G型
Stug3-2.jpg

自走砲は戦車に似ているが、上記のように誕生した経緯は異なるし、違った特徴を持っている。一つは、直接車体に砲を積むために、同じクラスの戦車比べて大きな砲を積めるということである。二つ目は、砲塔を持たない分、その重量を装甲に当てることができ防御力を高くすることができ、さらに車高を低くして被弾面積を小さくできることである。三つ目は生産が容易だということだ。構造が簡単な上、既存の戦車の車体を流用すればいいからである。

第二次世界大戦が勃発してから、自走砲は大雑把に言って三つの種類に分化していくことになる。
@従来どおりの陣地突破のための自走砲。破壊力のある大口径の火砲を積み防御力が高い。ドイツ軍では「突撃砲」と呼ばれる。代表的なものとしてはドイツ軍のV号突撃砲、W号突撃砲など。

Aそれまでの牽引式の砲に機動力をつけた自走砲。用途に応じて各種様々な砲を積むが、榴弾砲が多い。装甲は薄い。車体の上に砲を載せただけで、まったく防御が考慮されていないものもある。ドイツ軍では「自走砲」と呼ぶ。代表的なものとしてはドイツ軍のマーダー、アメリカ軍のプリースト、日本軍の一式砲戦車などがある。

一式砲戦車
一ョ砲
戦ヤ.jpg

B対戦車砲を載せ、戦車を撃破するための自走砲。貫通力のある長砲身の砲を積み、防御力も概して高い。ドイツ軍では「駆逐戦車」と呼ぶ。代表的なものとしてはドイツ軍のヘッツァー、ヤクトパンター、アメリカ軍のM10、ソ連軍のSU85などである。

SU85
su85.gif

ヘッツァー
ヘッツァー.jpg

自走砲は、その生産性の高さ汎用性の高さからいろいろな用途に使われるようになったのである。次回はそれぞれの自走砲がどのような活躍をしていったのか、そして現在に至るまでの自走砲の歩みを見てみたい。
posted by 戦車男 at 14:49| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月21日

多砲塔戦車

T35多砲塔戦車
t35_11.jpg

第一次世界大戦、膠着した塹壕戦を突破するために生まれたのが戦車である。塹壕を突破し、あらゆる敵をなぎ払いながら進軍する。これが戦車である。突破力と強大な火力による歩兵支援という思想を、もっとも忠実に反映しようとしたのが、第一次大戦後から第二次大戦の初期まで研究された多砲塔戦車である。

多砲塔戦車には、突破力とあらゆる敵を打ち負かす攻撃力を備えた、いわば「陸上軍艦」としての活躍が期待された。有名な開発国としてはソ連とイギリスであろう。ソ連ではT28T35が、イギリスではインディペンデント戦車などが代表である。

ソ連のT28とT35は、フィンランドとの冬戦争第二次世界大戦で実際に使用された。しかしながら、多砲塔戦車は当初の期待にこたえることはできなかった。砲を積みすぎたために、車体が大きくなり、対戦車砲のよい的となってしまった。おまけに多砲塔戦車は、車体の大きさゆえに装甲を薄くせざるをえなかったのでフィンランドの旧式の対戦車砲や普通の野砲でも簡単に破壊されてしまったのだ。塹壕戦が中心の第一次世界大戦ならともかく、戦場が流動的な近代戦では鈍重でおまけに防御力も弱い多砲塔戦車はでくのぼうだったのである。

多砲塔戦車は、あまりにも多くの機能をひとつのものに詰め込もうとしたために、あらゆる弱点も同時に抱え込んでしまったのである。イギリスは第二次世界大戦前に多砲塔戦車に見切りをつけ、ソ連も冬戦争の敗北を境に生産を止めてしまった。戦車大国ドイツは、多砲塔戦車の生産は実験的な2両のみで、その他一切の多砲塔戦車を生産してはいない。

多砲塔戦車は、ひとつの戦略にあまりに特化しすぎたために、環境の変化にまったく対応することができなかった。栄え滅びたかつての古代生物を思わせるものがある。
posted by 戦車男 at 22:24| 東京 ☔| Comment(3) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月19日

戦車の装甲A

前回のコラムから時間が経ってしまったが、戦車の特徴である防御力について、引き続き見てみよう。前回では主に第二次世界大戦までの装甲の発達を見てきた。今回は戦後における装甲の変遷を中心に見てみよう。

戦後初期の戦車の装甲の特徴は第二次大戦中期から発達していた、被弾経始の重視であった。被弾経始とは本来は築城の用語であるが、装甲に角度や丸みをつけて砲弾を弾きやすくすることである。また、装甲板を傾斜させることによって砲弾が通過する部分の実質的な厚みを増加させることができる(下図参照)。
DSCF0002.JPG
ソ連のT55やアメリカのM48、日本の61式など、戦後初期の第一世代といわれる戦車のいずれも、おわんを伏せたような丸い砲塔に傾斜した車体装甲を持っているのはこのためである。

M48
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さらに、戦車は大戦後に発達した歩兵の対戦車携行兵器に対処しなければならなかった。このためリアクティブアーマー(戦車の装甲の上に取り付けられ、対戦車兵器の命中に際して爆発し、それら兵器の貫通力を相殺する)や、様々な増加装甲が開発され、用途に応じて戦車の装甲の強化がなされた。加えて、このころから戦車にはNBC兵器(核・生物・化学兵器)に対する防御が付加された。ソ連は、核戦争下で行動しうる唯一の兵器は、戦車を中心とする装甲部隊であるとして戦車を非常に重視した。

戦後の戦車の装甲におけるエポックメイクとなったのは、1979年に量産が開始されたレオパルド2戦車である。これまでの被弾経始重視の戦車とはまったく異なり、垂直面で構成された四角い箱のような戦車だったのである。このような装甲になったのにはいくつか理由がある。

第一に、対戦車砲の発達により、砲弾速度がきわめて早くなったために、装甲を傾斜させてもほとんど意味がないということであった。加えて傾斜装甲は、積の割りに車内スペースとして使える容積が少なくなってしまう不便さがあった。ソ連の戦車などは狭すぎて乗員の身長制限があるほどである。  

第二に複合装甲の採用である。それまで外付けの増加装甲で補っていた機能を織り込んだ装甲である。複合装甲は各国で秘密にされているためその正体はいまだはっきりとしていない。概念としては、それまでの通常の鋼板の装甲にセラミックなどの新素材をサンドイッチしたものと考えられている。レオパルド以降の第三世代と呼ばれる戦車にはいずれもこの複合装甲が採用されている。現在ではさらなる防御力強化のため、レオパルド2のショト装甲など、新たな増加装甲が開発されている。

盾と矛の際限のない開発競争は、戦車がある限り今後とも続いていくだろう。
posted by 戦車男 at 21:53| 東京 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月05日

戦車の装甲@

戦車の大きな特徴といえば、その攻撃力と防御力の強さである。今回はその防御について書いてみよう。

まず、装甲というものが、どのような歴史をたどっていったのか見てみたい。

戦車が登場した当初、装甲板はボルトによってつながれ、形成されていた。装甲は硬い特殊な金属を使う上、砲弾を弾くために厚くなっているため、その工作は非常に難しいのである。だが、ボルト締めの構造は強度的に不安があり、新たな技術が求められた。

それがリベット(鋲)止めの方法であり1920から30年代の戦車に広く使われた。この方法は、鋲によって金属板同士を留める方法であり、当時の船舶や航空機などに広く使われていた。しかしながら、この方法にもいくつかの問題があった。そのひとつは、重い装甲の上に、さらに鋲の重さが加わるために、重量が増加してしまうことであった。さらに、リベットに銃砲弾が命中した際、リベットが車内に飛散し乗員を死傷させるという恐れがあったのである。

以上のような問題を克服するために、1930年代から実用化され始めたのが溶接方式である。装甲と装甲の間に接着剤となる金属を溶かしてくっつける方法である。この方法は第二次世界大戦中に各国の戦車の生産に普及し、現在に至るまで使用されている。

これとほぼ同時に利用され始めたのが、鋳造方式による戦車の生産である。鋳造方式とは、戦車の構造の型に、融解した金属を流し込んで作る方法である。簡単に言えばたい焼きと同じ方法である。この方法の利点は、ただ型に流し込むだけなので、大量生産が可能な点と、曲面の装甲を作るのが容易な点である。鋳造方式以外の装甲板同士をくっつけるやり方では曲面の装甲を製作するのは難しい。一方、この方法の欠点は、複雑な構造は製作できないことと、装甲板の強度が一定にならないことである。とはいえ、第二次世界大戦後も、ソ連(ロシア)を中心に広くこの方法は利用されているので、優れた技術といえよう。

今回は第二次世界大戦までの歴史を見ることにして、次回は第二次大戦後と装甲についての考察を書いてみたいと思う。
posted by 戦車男 at 12:29| 東京 🌁| Comment(1) | TrackBack(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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