2005年11月11日

クルスクの大戦車戦

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皆様は「クルスクの戦い」をご存知だろうか。ヒトラーが「ツィタデレ(城塞)作戦」と名づけ、ドイツ軍最後の乾坤一擲の大攻勢となった戦いである。

1943年春スターリングラードの戦いでの敗北から落ち着きを取り戻したドイツ軍は、第三次ハリコフ攻防戦でソ連軍に勝利し、夏の攻勢に向けて気勢を上げていた。ハリコフでの勝利により、ロシア南部のドイツ軍戦線は北側で前進。もとより前方にあった黒海側の南方戦線との関係で、中央部をコの字型に囲むように戦線が形成された(写真参照)。逆にソ連側から言えば、この地域はドイツ軍戦線に対する突出部であった。

この突出した戦線のちょうど中心にあった都市がクルスクであり、この戦いの名前の由来である。ヒトラーはこの包囲下にある獲物に目をつけ、南方軍総司令官のエーリヒ・フォン・マンシュタインに先手を打った攻勢を要求した。一方、マンシュタインはソ連軍に先に攻撃をさせ、軍が疲弊し補給が伸びきったところで一挙に反撃、これを殲滅する作戦を提案した。これが有名な「後の先」作戦であり、その有効性はハリコフの戦いで証明されていた。長期にわたる戦争で相対的に弱体化したドイツ軍には、積極的攻勢はあまりにもリスクが大きいと考えたのである。

だが、ヒトラーはソ連軍にみすみす進撃を許すことを断固として許さなかった。ソ連軍の準備が整う前に攻撃する「先の先」を主張した。マンシュタインは作戦を急ぐという条件でやむなく「先の先」を採用することを認め、作戦は5月に開始されることが決定した。

しかし、戦力の充実や、新型戦車パンターの配備に合わせるため、ヒトラーは作戦を何度も延期した。その間、ソ連軍はドイツ軍の攻勢の情報をキャッチし、クルスク周辺の防備を急ピッチで調え始めていた。結局作戦が実施されたのは7月に入ってからであった。
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1943年7月5日、ついにツィタデレ作戦が発動された。南方・中央・北方の三正面、合わせて約300キロにも及ぶ戦線にドイツ軍がなだれ込んだ。だが、作戦の開始直後からドイツ軍は強力な防御陣地にぶつかり、苦戦を強いられた。ソ連軍が建設したパックフロントと呼ばれる防御陣地は、戦車に対する塹壕というのにふさわしいものであった。対戦車壕、対戦車銃、対戦車砲、ダックインした戦車、カチューシャロケット砲、後方の砲兵陣地。あらゆる兵器がドイツ軍の進撃を阻止するために備え付けられ、それは何重にも及んでいた。

7月12日、南方のプロホロフカで彼我合わせて約1500両ともいわれる戦車が激突した。KB重戦車ティーガーに体当たりを行ったり、T34が何十両もの群れを成して飛び掛ったりするような戦車の肉弾戦が繰り広げられた。激しい戦車戦は一日中にも及んだが、結局どちらが勝利したのかわからない状況で、戦いは下火になってしまった。

ドイツ軍が必死でクルスクに取り掛かっているとき、ソ連軍は北方のオリョールで攻勢を開始。西側の連合軍もシチリア上陸作戦を開始した。この報を受けたヒトラーは作戦の中止を宣言。こうしてドイツ軍最後の大規模攻勢は尻切れトンボで終結してしまった。最終的にドイツ軍は各前線で50キロほど前進したに過ぎず、クルスクに到達するにはまだ倍以上の距離を残していた。

この戦いで両軍が動員したおおまかな兵力は、兵員約200万人、戦車4000両、航空機5000機、砲20000門以上と考えられている。私が不思議に思うのは、このような大規模な作戦がなぜ教科書で取り上げられていないのかという疑問である。この作戦の動員数はノルマンディー上陸作戦に匹敵する。むしろよく教科書に取り上げられるシチリア上陸は戦局に大きな影響を与えたと思えない(イタリアはもともと枢軸のお荷物だし、イタリア中部のグスタフラインでほぼ終戦まで戦線が動かなかった)。この事実を世に伝え、広めることが必要であろう。

この作戦以降、ドイツ軍は一方的後退を続けることになる(バルジの作戦を除く)。スターリングラードの戦いが戦局の分水嶺だといわれるが、私はこのクルスクの戦いこそが分水嶺だと思う。マンシュタインは、このクルスクの戦いまで、ドイツの最終的勝利の可能性を確信していたのである。だが、この敗北を受けてその確信は崩壊した。その詳細は彼の著「失われた勝利」に詳細に書かれている。

こういった点からもクルスクの戦いに対する再考が求められる。
posted by 戦車男 at 02:08| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
これを越える決戦は、恐らく2度とないであろう、といえる、大平原での大決戦ですな。

ガチガチに固められ、その上に作戦予備(戦術予備)までしっかり後置された突出部は、その脆弱性は消失しているのによくもまた…

戦局転換点の話はいわば、スターリングラードの戦いが(ドイツ軍の)攻勢限界点で、クルスク地区の戦いが戦局転換点ではないかと思います。

そういう意味でも、教科書に載ってもおかしくないかと、確かに思います。

>KB重戦車
KV?
Posted by 穿貫太郎 at 2005年11月23日 01:29
穿貫太郎さま

はじめまして!コメントありがとうございます。戦局についての認識は私も同じです。

矛盾するようですが、作戦云々の成否を抜きとして冷静な目で見れば1942年夏の時点でソ連を屈服させることができなかったという時点で、ドイツの最終的敗北は決まってしまっていたのではないだろうかと私は思います。ソ連の強さはその軍隊のみならず広大な国土にあると思います。独ソが妥協点のない消耗戦に突入したとなれば、国土・人口・資源の面で優れているソ連が勝つことは明らかです。

ドイツが勝利する要素があるとしたら、ソ連を混乱のうちに急速に分断し、国家システムを崩壊させることです。そのチャンスは1941年末のモスクワ攻略戦と1942年の南部大攻勢のときにあったのではないかと考えています。ソ連が混乱から立ち直った1942年の段階でドイツの勝利は失われたと見るのが妥当でしょう。

しかし、クルスクの戦いで圧倒的勝利を収め、1943年の夏を勝利で飾ることができたなら、停戦という可能性があったかもしれません。ただし、ヒトラーとスターリンという狂信的な人間が両国の国家指導者である以上、どちらかが滅亡するまで戦いは続けられるでしょう。
Posted by 戦車男 at 2005年11月24日 15:13
>クルスクの戦いで圧倒的勝利を収め、1943年の夏を勝利で飾ることができたなら、停戦という可能性があったかもしれません。
停戦成らずとも東からの圧力が一時的に減ずる分独逸は西と南(逃げ腰伊太利亜への強烈な一喝含む)の備えを固め直せたと思えます。とは言え面白くないのは英米二ヶ国ですから、陸上ではなく北海辺りで新たな騒動が持ち上がったのかも知れないとも思えます。
Posted by 調達本部 at 2005年11月30日 14:03
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