2005年09月09日

フィンランドを通じて学ぶ独立の気概

少々戦車からは外れますが歴史に埋もれた事実ですのでご紹介したいともいます。後ほどフィンランドの戦車部隊に関してもご報告したいと思います。


「負けるとわかっていたのならば戦わねばよかった」
「結局敗北したのだから特攻隊をはじめ日本兵の死は無駄であった」

先の大東亜戦争、そしてそこで散華した父祖たちをこのように評価する日本人は非常に多い。しかし、本当にこのように考えてしまってよいのであろうか。学ぶべきものは何もないのだろうか。

ここでひとつの事例を取り上げてみたい。北欧の小国フィンランドである。フィンランドは一九一七年のロシア革命に乗じて帝政ロシアより独立した。独立当初、フィンランドはボリシェビキとドイツ軍という二つの脅威に直面したが、それらの困難をくぐり抜けて、一九一九年に主権在民の共和国憲法を制定し、名実ともに独立を達成した。                         

しかし、フィンランドの平和はわずか二十年しか続かなかった。スターリンのソビエト連邦の復興とその軍事大国化は、フィンランドの独立を脅かすに至った。一九三九年九月、第二次世界大戦が勃発。ソビエトはドイツとの密約によりポーランド東部を占領。さらにソ連はエストニア、ラトビア、リトアニアを併合。次がフィンランドの番であることは誰の目にも明らかであった。十月、スターリンはフィンランド政府に対してモスクワにおける会議への使節派遣を求めてきた。その会議でソ連外相モロトフから使節団に渡された通告は驚くべきものであった。
「フィンランドとの国境は、わがレニングラードからたった三十二キロしかない。自動車で一時間もかからぬ距離である。だからフィンランドは国境をもっと北へ移動させろ。そのかわりラドガ湖北方で二倍の面積の土地をやるから…」

このような通告にフィンランド国民は激怒し、政府の大半の意見も不可侵条約を違反したソ連の不正義を糾弾するものであった。しかし、政府は冷静さを失ったわけではない。妥協案を練り、戦争を回避しようと努めた。だが、スターリンも臨席した十月末の会議で交渉はついに決裂した。会議の後、スターリンはフィンランド独立戦争時の亡命コミュニストО・W・クーシネンを呼び出し、フィンランド人民政府の樹立を命じた。このときスターリンはフィンランド共和国の抹殺を決意したのである。

フィンランド防衛の責任を負うのは、独立戦争に活躍した国民的英雄、マンネルハイム将軍であった。彼はソ連との戦争は極力避けるべきだと主張していたが、ひとたび開戦となれば国を守るため最善の策を考える真の愛国者であった。しかし、大国ソビエト・ロシアと人口三百万人に過ぎない小国フィンランドの国力の差を理解していた将軍の気は重かった。彼我の国力差は圧倒的であり、その兵力差を比で表すと以下のようになる。
常備兵力[51対1]予備兵力[179対1]戦車[32対1]航空機[70対1]砲[33対1](光人社NF文庫『世界戦車戦史』参照)
 
また、ソ連軍がフィンランドに差し向けた兵力は五十万であった。それに対してフィンランドがかき集めた兵力は三十万であり、それはフィンランド全人口の約九パーセントであった。

戦う前から勝敗はわかっていた。負ける戦いを指揮することほどつらいことはない。だが、祖国を守るために立ち上がった国民の姿はマンネルハイム将軍を大いに力つけた。

十一月三十日、ソ連軍はフィンランドに侵攻してきた。ソ連軍は最短距離でフィンランドの首都ヘルシンキを落とすため、カレリア地峡のマンネルハイム・ラインを強引に突破しようと試みた。

マンネルハイム・ライン。それは縦深九〇キロよりなる第一次大戦型の大要塞であった。これをつくるのに莫大な資金がかかったが、フィンランド国民は祖国を守るため必死に金を貯め何年もかけて設営してきたのである。ソ連軍は相手を見くびっていた。強引にマンネルハイム・ラインを突破しようとしたソ連軍は各所で撃破され大きな損害を出した。フィンランド軍は確かに物量で劣ってはいたが、士気も高く、よく訓練されていたし地の利も得ていた。

一九四〇年一月、ソ連側は敗戦を反省し、軍の編成を新たにしてさらに約十万の兵力を加えた。正攻法で要塞を攻め、損害を受けても次々部隊を送り、フィンランド軍を消耗させていった。しかし、フィンランド軍はマンネルハイム・ラインの突破を三月になるまで許さなかった。スターリンは焦っていた。戦争が長引き西側諸国が介入してくることを恐れたからである。実際にソ連は国連から既に除名されていたし、米英仏の援助物資や義勇軍はフィンランドに到着していた。スターリンは開戦前「一週間でヘルシンキを占領し、全フィンランドを制圧する」と豪語していたが、戦争は三ヶ月に及んでいた。

一方このとき、フィンランド側は既に限界に達していた。予備兵力を使い果たし、マンネルハイム・ラインも各所で突破されつつあった。もはや戦いを続けることは不可能であった。

三月六日、フィンランドの使節団は講和を結ぶためヘルシンキを出発した。前述した理由のため、ソビエト側は講和の用意があることを申し出ていたのだ。講和の条件は十月の通告より一層厳しいものであった。しかし、これ以上戦うことのできないフィンランドは条件を飲む以外なく、三月十三日に講和は結ばれた。

結局、この戦争でフィンランドは多くの国土と国民の命を失い敗北した。しかし、国の独立と名誉は守られたのである。フィンランド国民が立ち上がったことが、スターリンの野望を打ち砕いたのだ。

独立を守るため苦闘してきたフィンランド人は、現在でも国家の防衛に対しては真剣である。そしてマンネルハイム将軍をはじめ独立に尽力した父祖に対する限りない敬愛の念が存在する。彼らは戦争に破れはしたが、その思いは今もフィンランドの人々の間に生き続けているのだ。翻って日本を見てみるに、国民の国防意識は皆無と言ってよい。反戦平和の念仏を唱えていれば平和が守れると本気で思っているありさまである。
 立ち遅れて世界の舞台に登場した日本が、列強の侵略に対して国民一致団結して努力した明治時代。アメリカに対して敢然と立ち上がった大東亜戦争。その歴史は忘れ去られた。国難に殉じた烈士勇士、国の存亡の危機を救った偉人たちは、わずかな日本人が知るのみである。
「自らを守れない国を助けてくれる国はない」
 これはマンネルハイム将軍の言葉である。今の日本人に対してもっとも痛烈な一言と言えよう。アメリカの庇護のもと、ただただ平和をむさぼり続けてきた日本人。今こそ日本の歴史を甦らせ、独立の気概を取り戻さねばなるまい。
posted by 戦車男 at 20:05| 東京 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大東亜戦争は、純粋な防衛戦争ではない。
勝利条件が、日本軍によるアメリカ粉砕
ドイツ軍の欧州統一という

ほとんど不可能に近い勝利条件なのだ。

そもそも

シナ事変でほとんど、日本は経済的限界を露呈していた。

日本銀行や大蔵省は、日本経済の文化伝統を壊しながら無理して戦線拡大のための経費を捻出している。


そのような、経済破綻のような国が

南京占領以後の蒋介石軍を追い重慶まで爆撃している。

それならまだしも日本陸軍はその後に影響する失敗を行った。

アメリカ資産への誤爆である
重慶爆撃までは、日本に沈黙しアメリカ資産を
守るために、仔細なる地図を日本陸軍に提出していたのである。

それを誤爆といい、日本陸軍は、アメリカ資産を
攻撃したのである。

それらの行為に対し報復処置としてアメリカは、日本に対し、高ガロン(飛行機燃料の輸出禁止)のガソリン輸出停止(モラル・エンバコードを)
日本に突きつけたのである。

日本は。90%以上の石油をアメリカから輸入していたため、石油確保のための作戦を行わざるおえなかった。

これを、フィンランド独立戦争と比べると、戦争への大義名分のレベルが低いということがわかる。

シナ事変における、上海上陸作戦以後の南京占領は、陸軍の大本営の取り決めにはなく指揮官の越権行為だった。

(10万の大軍で攻め込んでも
それは、戦争ではなく、事変で済ませた日本軍は
ハーグ条約も無視し戦闘を行っている(笑))

日本の、戦争はローマ軍の後期に見られる
統率の取れない軍隊に変貌していたのである。

日本陸軍のシビリアンコントロールの欠如が
しなくてもいい、戦争をよび起こしたのである

天皇がアメリカとの開戦をとめようとし
米内内閣を成立させたが
米内内閣をぶっ壊したのも
日本陸軍の差し金である。

東条英機も、アメリカとの対戦は、勝ちを予測できないとも発言している。

もちろん山本五十六もである。

このような戦略的戦術的に破綻している戦争
を防衛戦争とよび、戦線縮小、なら理解できるが
補給戦線も構築できない上での、戦線拡大なぞ

まっとうな戦法家なら到底、許諾できない
戦争が行われたのである。

その戦争も、国民の自発的は愛国心ではなく
戦争を正当化する、道具、お膳立てが整い
そのうえでの、愛国心など

高潔なる愛国心のフィンランド独立戦争
と比べる余地もないのである。
Posted by ほう at 2006年08月18日 16:54
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