2005年12月24日

地元に帰省いたします。

ブログの更新が滞ってしまい申し訳ありませんでした。忘年会や帰省の準備など、いろいろと忙しく今日まで延びてしまった次第です。

大学も冬休みに入り、いよいよ本年も終わりに近づいてきました。私、出身は静岡でして、明後日地元に帰る予定です。地元でも投稿いたしますので年内に後何度か更新できるとは思いますが、何分実家のネット環境が貧弱なので、再び滞ってしますかもしれません(笑)
posted by 戦車男 at 20:19| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月20日

戦争映画

(映画「メンフィス・ベル」)
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先日、光人社ノンフィクション文庫の『リアル・グットウォー』という本を読んだ。内容は、第二次大戦中、ドイツ本土爆撃を行うアメリカ航空隊の若者たちを描いたものである。当時のアメリカ空軍爆撃隊は、35回の爆撃ミッションをこなした兵士たちを帰国させるというルールになっており、若者たちは、その35回のカウントダウンに全集中力を注ぎ込み、肉体的にも精神的にも過酷な日々を送っていた。彼らが爆撃に使った「B-17」は「空の要塞」といわれ重武装を誇ったが、爆撃機に乗っている側の人間にしたら、戦闘機の出現を抑えることはできないし、高射砲の弾幕をくぐれるかも運しだいである。一回一回のミッションを乗り切れるかが彼らのすべてだったといってもいいだろう。

そういった本を読んだ経緯で、昨日、同様のテーマを扱った戦争映画「メンフィス・ベル」を見た。その中ではまさに、『リアル・グットウォー』で読んだ世界が広がっていた。眠っているクルーたちを起こし、ミッションにいざなうハングマン(死刑執行人)、ブリーフィングでの緊張した空気、高射砲の弾幕・戦闘機の襲撃など、上空での激しい戦闘、これらの光景がありありと描かれていた。

作品の内容については、まとまりがなくいまいちであったが、当時の雰囲気を知ることができたように思った。

その他、私がここ近年で見た戦争映画は「プライベートライアン」、「スターリングラード」、「パールハーバー」、「バルジ大作戦」、「ヒトラー」(含めていいのか?)などである(あまり映画を見てない・・・)。

(映画「バルジ大作戦」)
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戦車に絡めてコメントを述べると、どれも偽物(特にドイツ軍)ばかりで作り物がばればれである。「プライベートライアン」のティーガーはT-34の改造が丸わかりで心苦しかったが、ケッテンクラートが走っている映像を見ることができたのは感動だった。バルジ大作戦はドイツ側も連合軍も米軍戦車ということでリアリティーが感じられない部分もあった。映画において、服装や火器などの小道具はかなり忠実に再現されるのに、戦車などの大道具がいい加減になってしまうのは何とかしてもらいたいものである。確かに金がかかるが、知っている人が見たら一番違和感を感じてしまうところだろう。

(映画「プライベートライアン」)
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上記の映画で私が一番印象を受けたのは最近公開された「ヒトラー」である。軍事関係の見所はそこまで多くはないが(軍装や小火器、88mmも出たか)、ヒトラーを中心にすえた崩壊間際の第三帝国の人間模様が興味深い。映画全体の雰囲気としては、ひとつの歴史小説を読んでいるようで、アメリカ映画にありがちな、単純なドラマ的な展開はなく、淡々と史実が描かれている。一見の価値ある映画だと思う。

映画についてあまり詳しくないので、何かお勧めの映画がありましたら教えていただきたい。



posted by 戦車男 at 20:37| 東京 ☀| Comment(9) | TrackBack(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月18日

北方領土問題についての概説

先日行った、私の所属する磐南総合研究会の勉強会で発表しました、北方領土問題についてのレジュメです。北方領土問題の経緯、日露両国の立場について、コンパクトにまとめてみました。興味がありましたらご覧ください。
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(北方領土を視察する小泉首相

□北方領土問題とは
◆歴史的経緯(『重光晶「北方領土」とソ連外交』時事通信社参照、以下本書からの引用)

・19C、樺太や択捉島以北の千島列島にロシア人が進出し、日本人と接触が始まる。

・1855年「日露通商友好条約」締結。択捉島以北の千島列島をロシア領とし、以南を日本領とする。樺太島に関してはとりあえず日露混住とし、後に境界線を決めることとされた。

・1875年「千島樺太交換条約」締結。樺太全島をロシア領とし、「クリル群島」すなわち占守島から得撫島までの島々は日本領とすることに合意。
※交換されたのはあくまで「クリル群島」であり、北方4島はこの時樺太と交換で領有したわけではない。

・1905年「ポーツマス条約」締結。北緯50度以南の樺太が日本に割譲された。

・1945年8月9日、ソ連対日戦に参戦。10日南樺太に侵攻、18日(停戦決定後!)千島列島に侵攻。15日の終戦後もソ連は侵略を続け、9月中に全樺太・千島列島を占領した。ちなみに日本軍が戦闘行動を中止した15日時点でソ連軍は樺太の50度線から20キロ進んだに過ぎない。占守島に上陸したソ連軍も一度撃退されており、千島列島の占領が本格化したのは日本軍の武装解除後だった。

1946年2月、「南サハリン州」を設置し、一方的に占領地域をソ連領に併合。

1951年「サンフランシスコ平和条約」締結。日本は千島列島及び南樺太を放棄することと定められたが、その帰属先は明記されなかった。さらに、「千島列島」の範囲が米英ソ日など関係主要国の間ではっきりと決められなかった。なお、ソ連は、南樺太の返還と千島列島の引渡しを要求したが認められず、これを不満としてサンフランシスコ平和条約を締結しなかった。

1956年、「日ソ共同宣言」日本は最低限度として固有の領土である4島返還を要求。しかし、ソ連は2島返還によって領土問題の解決を求めた(2島は北方領土の総面積のわずか7パーセントに過ぎない!北方4島の面積は約5000平方キロメートルであり、千葉県と同じくらいの広さがある)。日本は抑留者の問題や国連加盟の問題をこれ以上放置できなかったため、やむをえず領土問題を棚上げにして国交を回復。平和条約は結ばれていない。すなわち、日露両国は領土問題に関しては未だ戦争中である。

以降、領土問題に関して顕著な進展なし。
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(北方領土地図)

◆「北方領土問題」ソ連(ロシア)の立場(と反駁)
ヤルタ協定における米英ソ三国での合意(南樺太の返還、千島列島の引渡しを英米ソで合意)
→少なくとも北方4島に関しては日本固有の領土であり、ソ連も参加したカイロ宣言・ポツダム宣言の領土不拡大の原則に反する。さらにサンフランシスコ平和条約2条C項(ソ連に領土が与えられることは書かれなかった)の成立により、米英のヤルタ協定における合意は取り消されたとみなされる。

・「サンフランシスコ平和条約で日本は領土を放棄した」という主張。
→帰属は決定していないし、千島列島の範囲も未確定。1954年、米国はソ連にあてた書簡の中で、「北方四島は千島列島に含まれない」と記述。それ以前にソ連はサンフランシスコ平和条約を締結していない。(p41参照)

・参戦に伴うソ連の犠牲に対する対価、日本への懲罰。
→ソ連との戦闘はわずか一週間足らずであり、大半は終戦後かすめとった領土である。加えて日本に対する参戦の理由もでっち上げの中立条約違反である。でまかせ、はったり。

・「すでにソ連のものになっているから諦めろ」という主張。ドイツにおいて東プロイセンを奪う際に、この方式が成功したため日本に対しても主張。ただし、これはドイツが分裂したため、平和条約が現実問題として結べないこと、加えて両ドイツが領土の返還要求をしていないことが根底にある。

以上が北方領土問題の経緯とそれぞれの立場である。
posted by 戦車男 at 15:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月15日

ハーフトラックA

調達本部さん、十津川さんより興味深いコメントがあったので、それに答えつつ、前回書ききれなかった点を補って今回の記事にしたいと思う。

まず、主なハーフトラック利用国であるドイツとアメリカの比較をしてみたい。垂直面で構成された簡素なM3と、ハンドルに連動してキャタピラの制動がなされる、凝った構造のドイツのハーフトラックでは、確かに「質」と運用の思想に大きな違いがあったと思う。

アメリカの場合は、当初は弾薬輸送、後に兵員輸送を目的として開発された。そのため、ある程度の装甲と不整地行動力をハーフトラックに求めたであろうが、とにかく機甲師団、歩兵師団にかかわらず配備するため、大量にそろえることが前提であった。それゆえ性能が凡庸でも、単純な構造で生産性の高い車両に仕上げたのであると思う。

ドイツの場合は、調達本部さんのコメントの指摘にあるように、機甲師団の兵員輸送や弾薬運搬、砲の牽引を目的に開発されたため、戦車などの追随可能な、路外での不整地機動力が求められた。それゆえ、性能向上のため、エンジン・操縦装置・キャタピラ(路上での行動力向上のためゴムパッドがつけられた)・車体構造が複雑になったのだろう。もちろん、効率を考えないドイツ的な機械へのこ「こだわり」が影響したのはいうまでもないだろう。これは、ティーガー戦車マウス80cm列車砲グスタフなどに見られるし、ポルシェ博士などはその権化である。

アメリカの場合、大量生産の方針はおおむね成功を収めたといえるが、やはり路外での機動力、そして市街戦などでの防御力が不足で問題視された。それゆえ戦後に、前線での兵員輸送は防御力・機動力の高い密閉式のキャタピラ車になり、後方での輸送は軽快な装輪車になったのであろう。中途半端なハーフトラックに両方の任務を行わせるより、それぞれの任務に特化した車両を使う方が効率的である。

ドイツの場合は、機甲師団とその他の部隊とでハーフトラックの種類が分かれていたといえるが、いずれも構造が複雑で量産に向かない。慢性的な輸送力不足であったことを考えれば、性能が高くて複雑な構造の車両を使うよりも、とにかく数をそろえることが重要であったのではないだろうか。特に輸送車両の場合は、戦闘に直接関係ないので、数が一番優先されるはずだ。例えば10両の97式中戦車は1両の90式戦車に勝つことはできないが、10両のジープは1両のハマーに輸送量で勝つことができるのだ。
posted by 戦車男 at 16:48| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハーフトラックA

調達本部さん、十津川さんより興味深いコメントがあったので、それに答えつつ、前回書ききれなかった点を補って今回の記事にしたいと思う。

まず、主なハーフトラック利用国であるドイツとアメリカの比較をしてみたい。垂直面で構成された簡素なM3と、ハンドルに連動してキャタピラの制動がなされる、凝った構造のドイツのハーフトラックでは、確かに「質」と運用の思想に大きな違いがあったと思う。

アメリカの場合は、当初は弾薬輸送、後に兵員輸送を目的として開発された。そのため、ある程度の装甲と不整地行動力をハーフトラックに求めたであろうが、とにかく機甲師団、歩兵師団にかかわらず配備するため、大量にそろえることが前提であった。それゆえ性能が凡庸でも、単純な構造で生産性の高い車両に仕上げたのであると思う。

ドイツの場合は、調達本部さんのコメントの指摘にあるように、機甲師団の兵員輸送や弾薬運搬、砲の牽引を目的に開発されたため、戦車などの追随可能な、路外での不整地機動力が求められた。それゆえ、性能向上のため、エンジン・操縦装置・キャタピラ(路上での行動力向上のためゴムパッドがつけられた)・車体構造が複雑になったのだろう。もちろん、効率を考えないドイツ的な機械へのこ「こだわり」が影響したのはいうまでもないだろう。これは、ティーガー戦車マウス80cm列車砲グスタフなどに見られるし、ポルシェ博士などはその権化である。

アメリカの場合、大量生産の方針はおおむね成功を収めたといえるが、やはり路外での機動力、そして市街戦などでの防御力が不足で問題視された。それゆえ戦後に、前線での兵員輸送は防御力・機動力の高い密閉式のキャタピラ車になり、後方での輸送は軽快な装輪車になったのであろう。中途半端なハーフトラックに両方の任務を行わせるより、それぞれの任務に特化した車両を使う方が効率的である。

ドイツの場合は、機甲師団とその他の部隊とでハーフトラックの種類が分かれていたといえるが、いずれも構造が複雑で量産に向かない。慢性的な輸送力不足であったことを考えれば、性能が高くて複雑な構造の車両を使うよりも、とにかく数をそろえることが重要であったのではないだろうか。特に輸送車両の場合は、戦闘に直接関係ないので、数が一番優先されるはずだ。例えば10両の97式中戦車は1両の90式戦車に勝つことはできないが、10両のジープは1両のハマーに輸送量で勝つことができるのだ。
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2005年12月13日

ハーフトラック

(ドイツ・8トンハーフトラック)
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近代戦はある一面を捉えれば「輸送の戦い」である。近代戦に使われるさまざまな兵器を支えるためには、さまざまな物資が必要である。たとえば戦車の場合には、燃料・オイル・主砲弾・機関銃の弾・整備のための各種部品などが恒常的に必要である。第二次世界大戦では、日本軍は海上輸送をアメリカ潜水艦・航空機に断絶させられ極度な物資不足・食糧難に直面した。ドイツ軍は1941年のバルバロッサ作戦に際して電撃的な進撃を見せたが、補給が間に合わないがためにモスクワを前にして一ヶ月足踏みをしなければならなかった。以上のような例に見られるように、「補給」とは近代戦において非常に重要な要素であることに違いない。

今回の記事では、前線において砲弾や人員の輸送に従事した「ハーフトラック」という、現在では見られない第二次世界大戦固有の車両についてみてみたいと思う。

ハーフトラックとは、車体前部がタイヤ、後部がキャタピラの折衷車両である。不整地での機動力を向上させつつ、ある程度の高速走行能力を持たせ、さらにキャタピラ車より安く製作するという構想で開発された。私がはじめて「ハーフトラック」を知ったとき、私は「半分トラック(貨物車)」という意味だと思っていた。しかし、「トラック(無限軌道・キャタピラ)」という意味なので、皆さんご存知とは思うがご注意を。

ハーフトラックを主に採用した国はドイツとアメリカである。ドイツではSd.Kfz250やSd.Kfz251、2トン、8トン、18トンの各種サイズのハーフトラックが有名である。バイクとキャタピラをくっつけたケッテンクラートという面白いう車両もある。(ちなみに、18トンハーフトラックはティーガー戦車の牽引に使われた)総生産数は25000両程度といわれている。アメリカはM2、M3ハーフトラックが主で約60000両が生産され、ソ連にもかなりの数がレンドリースで提供された。

戦場での評価は非常に高く、他のキャタピラ車である戦車や自走砲などとともに行動が可能な、不整地での追随性が評価されている。加えて牽引力の高さから、ハーフトラックは大砲の牽引車としての役割も果たしてきた。さらにいえば、ハーフトラックは各種特殊車両のベースとしても活用された。高射砲を積んだ対空車両や、ロケットや野砲、迫撃砲を積んだ火力支援車両、対戦車砲を積んだ対戦車車両、偵察車両、戦闘指揮車両などさまざまな派生車両が作られてきた。
(アメリカ・M3ハーフトラック)
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このように隆盛を極めたハーフトラックではあったが、戦後急激に衰退し、今では絶滅してしまった(と思う)。その要因としては2つの点が考えられる。装輪車、キャタピラ車の性能がともに向上(特にキャタピラ車)し、その両者のうまみを採ったハーフトラックの存在意義が薄れたという点。もうひとつは、歩兵に対する防御向上が要求から、前線での歩兵輸送用の車両がキャタピラ車に切り替えられたということである。

初めてハーフトラックを知ったとき、私は非常に効率的な車両であるなと感心したものなのだが、結局はつぎはぎの中途半端な車両だったのだろうか。なんとなく納得できないものがある。
(ドイツ・ケッテンクラート)
M3-2.jpg

posted by 戦車男 at 12:12| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月08日

ゼミが決まりました。

私事で恐縮ではありますが、来年から取るゼミが決まりました。国際関係と安全保障を専門としている山本武彦先生のゼミに決まりました。

ゼミでは、国際関係と安全保障を「地政学」の視点から見ていきたいと思っています。地政学は日本ではあまり盛んな学問ではではありませんが、欧米では軍事や国際関係を中心に用いられているスタンダードな学問です。

地政学を簡単に言うと「地理的条件と政治の関係を理解する」ということです。国際関係や安全保障は基本的に力と力の関係のリアリズムです。地政学は、そういった国際関係における力のかけ具合や、相手国の弱点、世界の力の流れなどを地理的な観点から分析します。

どうも見ていると教授の研究の方向とは異なりますが、私は以上のような方針で今後大学の勉強を進めていくつもりです。余裕があればその成果もこのブログで紹介したいと思います。
posted by 戦車男 at 16:52| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月07日

日本軍戦車、どうすれば連合軍戦車に対抗できたか?

旧日本軍の戦車に対する評価というものは、日本海軍の機動隊・水雷部隊などの華々しい戦いや、航空隊の活躍に比較するとすこぶる悪いものがある。その原因、背景などについては、以前の記事「旧日本軍戦車に対する一方的断罪を斬る」で多少触れたが、今回の記事ではもう一歩踏み込んで「いかにしたら連合軍(アメリカ)戦車に対抗できたか」ということを考えてみたいと思う。

まず、考察の対象とすべき連合軍(アメリカ)の戦車はM4シャーマンであろう。日本軍はこのシャーマンを「鬼戦車」と呼び、その撃破は、日本軍にとって非常に困難であった。戦車砲や速射砲による待ち伏せでの近接射撃。地雷や梱包爆薬、火炎瓶などを抱えた歩兵による肉薄攻撃などが攻撃の手段であったが、慢性的に重火器が不足していた日本軍では後者が主にならざるを得なかった。戦車に対する攻撃手段が欠如していたがために、有為な若者たちが無謀な攻撃で徒に命を失っていたのである。このことは大いに反省しなければならない。

対抗策として、第一に考えられるのは戦車の強化である。日本軍は47mm砲を搭載した97式中戦車改、1式中戦車を開発するが、シャーマンに対してはあまりにも威力不足であった。そこで、当時のスタンダードであった75mm砲を搭載した3式中戦車が開発されるが、その登場はあまりにも遅すぎかつ数が少なすぎた。4式・5式も開発されたが、実践投入にはまだまだ時間がかかった。以上を見るように、戦車の開発・改良が遅れたという点を考慮しても、新型戦車の投入には、当時の日本の技術ではかなりの時間がかかるということがわかる。戦車で対抗できないとすればどうすればよいのか。同じ戦車弱小国のイタリアに参考となる例がある
(97式中戦車)
97ョ中戦ヤ個体.jpg

すなわち、自走砲の利用である。以前の記事でも紹介したように、自走砲は車体に直接砲をつむため、戦車に比べて大型の砲を搭載することができるし、既存の戦車の車台を流用すればいいので生産も容易である

第二次世界大戦時のイタリア軍の主力戦車はM13 40中戦車であった。この戦車の性能は、32口径47mm砲、装甲厚6〜40mm、重量13.7トン、最高時速30kmで、日本軍の主力である97式中戦車18口径57mm砲、装甲圧10〜25mm、重量15トン、最高時速38kmと同レベルであった。イタリアのM13戦車は北アフリカの戦いでイギリスのクルセーダーやアメリカのシャーマンにコテンパンにやられ、何とか対抗しなくてはならなかった。そこでイタリア軍が考えたのは、貧弱なM13の車台に強力な75mm砲を搭載したセモベンテ自走砲なのである。
(M13 40中戦車)
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(セモベンテ自走砲 改良型)
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セモベンテ自走砲はその攻撃力と防御力で連合軍の戦車に対して善戦し、イタリア兵から高い評価を得ていた。さらにイタリアが敗戦してから後も、ドイツ軍の占領地域でその評価ゆえ生産が続けられたのである。日本も確かに自走砲を開発していたが、本格的な対戦車用で背の低い密閉式の、いわゆる「駆逐戦車」はついに開発しなかった。97式戦車の車台に、3式戦車に搭載された90式野砲をのせて、駆逐戦車を製作するのが、手っ取り早い対抗策になるのではないかと私は強く思うのであるがいかがだろうか。それであれば、1942年の早い段階で開発・製作が完了し、連合軍の反攻作戦が本格化する1944年には、各島嶼に配備が完了できたのではないかと考えている。少なくともフィリピン・沖縄で活躍はできただろう。

もうひとつの対抗策は、歩兵の携行兵器、すなわちパンツァーファーストである1942年にドイツで開発されたパンツァーファーストのノイマン効果(弾頭に火薬をすべてつめるのではなく、あえて先端に空間を設けることで火力集中させ威力を数倍に高める)原理は日本でも研究され夕弾などに応用されていた。ドイツと同盟関係にあったのであれば、その威力は明らかに伝わっていただろうし、開発技術も容易に提供されただろう。

パンツァーファストは、ドイツで大量に生産され、小銃すら足りない中でもふんだんに供給され続けた簡便な兵器である。1945年のベルリンをめぐる攻防で、ソ連はおよそ3000両の戦車を失ったといわれているが、その大半はパンツァーファーストによって撃破されている。生産の容易性、そして実際の威力の点から積極的に導入すべきであっただろうと考えている。ジャングルや険しい地形の多い南方では、近接戦闘をいとわない日本軍の性格も相乗して、大きな戦果をもたらしたであろうと思う。

以上の2点が現実的な対抗策であると思うのだがいかがだろうか?
posted by 戦車男 at 16:17| 東京 ☀| Comment(16) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月04日

あしか作戦の潜水戦車

1940年6月フランスを打ち破ったドイツは、その矛先をイギリスに向けた。だが、イギリスに侵攻するためには、これまでの戦いと違い、海を越えていかなければならない。そのためにドイツ軍は主力のV号戦車に特別な改造を行ったのである。

それは、V号戦車を潜水可能な戦車に改造することであった。輸送船が岸辺に接岸してからいちいち戦車を揚陸していたら時間がかかるし、何よりも敵の眼前でそのような悠長で無防備なことを行っていたら危険極まりない。それゆえに、海岸からある程度はなれたところで船から離れ、各戦車がそれぞれ上陸するほうが安全だろうと考えられたのである。

海岸まで自走する方式について、浮いた状態で進む方式と、海底を這っていく方式とで一度意見が分かれた。浮いた状態のメリットは、沈まないから水密部分を減らすことができることと、吸気・排気の問題を考えなくていいこと、そして、ある程度の火力支援が行えるということであった。潜水するほうは、敵からの攻撃を受けにくい点と、浮くためのバランスを考慮しなくていいということであった。

結局、浮上するためのバランスどりができなかったため、潜水方式が採用された。潜水するために問題となったことは、水が車内に入ってこないようにすることと、エンジンの吸気・排気をどうするかということであった。前者の問題については、戦車にある穴、隙間のすべてをゴムで埋めることによって解決した。ちなみに上陸後、すぐ戦闘が行えるように、それらのゴムは車内からのボタンひとつで火薬の小爆発によって取り外すことができるようになっていた。

もうひとつの問題は解決が難しかった。最初は、吸気は中空のポールを立ててそれを海上に出すということが考えられたが、予想された水深が20から30メートルであったためそれは困難だという結論に至った。そこで考えられたのが、ホースのように柔軟な管を吸気口から伸ばし、その先を水に浮く資材に取り付けるという方式であった。このやり方は実験でも順調で、イギリス上陸作戦の「あしか作戦」に採用された。なお排気はそのまま水中にボコボコと吐き出すことにした。

さっそく約100両のV号戦車がその改造を受けたが、結局あしか作戦は実行されなかった。9月の「バトル・オブ・ブリテン」でルフトバッフェがイギリスの制空権を取ることができず、ヒトラーが作戦を中止したからである。だが、そのうちいくつかの潜水戦車は、1941年の独ソ戦の初めに、ブーク川の渡河に使われ、ソ連装甲車の襲撃を受けた歩兵を救っている。
posted by 戦車男 at 13:44| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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