2005年11月30日

『日本人の歴史哲学』の紹介

今月中旬、私の所属する磐南総合研究会代表岩田温が『日本人の歴史哲学』を出版致しました。今回の記事では、その紹介をしたいと思います。

『日本人の歴史哲学』の目的は、戦後60年間、そして今もなお日本の空気であり続けている左翼の歴史哲学、「東京裁判史観」にかわる歴史観を打ち立てることにあります。

本書では、歴史哲学に対する考察を深めるため、まず古今東西の哲学者の思索を辿りますヘーゲルの自由と精神の歴史哲学、ベルジャーエフの神学的な歴史哲学、E・H・カーの科学的な歴史哲学、坂本多加雄の「来歴」に基づく歴史哲学などです。

次に、こうした「歴史哲学」を体現する場としての「国家」についての考察、そして、行動によって具体的に歴史哲学を実践してきた西郷隆盛や特攻隊などの過去の先人たちを見ていきます。

以上のような思索を踏まえた上で、我々が持つべき「日本人の歴史哲学」についての結論に至ります。

本書の内容は、少々難解ではありますが、代表を中心に会員一丸となって努力した成果であり。非常に読みごたえのある内容と自負しています。もし興味がございましたら、どうぞお手にとって見て下さい。よろしくお願いします!

日本人の歴史哲学―なぜ彼らは立ち上がったのか
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展転社

なお、本書には「からごころ」・「正義の喪失」などで有名な埼玉大学教授の長谷川三千子より、推薦の辞をいただきましたのでご紹介いたします。


(推薦の辞・長谷川三千子)
ただそのまゝ虚空のうちに呑まれ、消え去つたとばかり思つてゐた、自らの語つた言葉、書いた言葉が、思ひもかけず、若々しい声の響きをもつて、こだまとなつて返つてくる―これほど幸せな体験が、またとあらうか。

岩田温氏の著『日本人の歴史哲学』の原稿を送つてもらつたとき、私がまづ感じたのは、さうした素直なよろこびであつた。

しかも、それは決して単なる「こだま」でも「鸚鵡がへし」でもない。かつて私のものであつたそれらの言葉は、その本意を保ちながら、いまや完全に著者自身のものとなつて、その構想のうちにぴたりと位置づけられ、使ひこなされてゐる。それが何よりも嬉しいのである。              
この書の構想は、途方もなく大きなものである。もしこれが、どこかの大学の後期博士課程の学生の博士論文として企画されでもしてゐたら、担当の指導教官は大あわてで、もつと主題を小さく縮小するやうに、と忠告したことであらう。そして、それと同時に書き手の精神も萎縮させられてゐたところだつたであらう。この書が、アカデミズムの小さな柵のうちに囲はれることなく、同世代の若者たちとの間の生き生きとした議論に育まれて生まれ出てきたことを、心から祝福したいと思ふ。

もちろん、各々の分野の専門家が見れば、各章の各節がそれぞれ一冊づつの著書をなすべき大主題であつて、それをこんな風にずばり、ずばりと大づかみにしてゆくのは、荒つぽさのきはみである、と言ひたくもならう。しかし、よく見ると、岩田氏の「大づかみ」は、決して空疎な「大づかみ」ではない。むしろ、その一つ一つの考察は緻密と言つてよいほどであつて、氏の筆は、それぞれの相手、ヘーゲルやホッブズや福沢諭吉らの核心部分に急降下し、鋭い嘴でその髄をつかみ出すのである。

さういふことが可能となつたのも、おそらくは、著者のうちに「精神」といふ言葉が、生きた意味をもつて響きつづけてゐるからであらう。「精神」とは、実体でもなければ、なんらの 教条 ( ドグマ ) でもない。「精神」とは、肉体を有するこの小さな一個の自己が、自国の歴史の或る一瞬に自己を燃焼するとき、そこに閃めく一条の光である。そして著者は、いかなる高名な哲学者や歴史家や歴史上の偉人に対しても、怖めず臆せず、無言のうちにかういふ問ひを突きつけてゐるのである――お前は、本当に「精神」を見ようとしてゐるのか?お前は本当に「精神」をもつて生きたのか?

こんな風に突きつけられてみると、皮肉なことに、「 精神 ( ガイスト ) 」をうたひ文句にかかげ、「 精神 ( ガイスト ) 」の自己展開が歴史なのだと主張するヘーゲルの歴史哲学が、まさにまるで「精神」と無縁なものであることをさらけ出してしまふ。そしてまた、単なる「狂信」に支へられたテロと、大東亜戦争末期に特攻に志願して散つていつた人々との差がどこにあるのかといふことも、このやうな問ひをつきつけることによつて、自づと明らかになるのである。

しかしまた、心のうちに「精神」といふ言葉を大事にかくし持つてゐる者はみな、現代の日本、のみならず現代の世界といふものに対して、或る絶望的な思ひを抱かざるを得ない。この著者のはじめにも、著者は昭和四十五年に書かれた三島由紀夫の言葉「このまま行ったら…(略)…日本はなくなつて、その代りに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」を引き、この予言どほりにことがすすんでゐることを憂へてゐる。けれども、少なくともこの著書を読んだ人々は、三島氏とは違つて、「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない」とは言はずにすむであらう。ここには、すべてが無機的でからつぽになつてしまつた、そのコンクリートをうち破つて顔を出す、「精神」の芽吹きを見て取ることができるのである。


本書の詳細はこちらをご覧下さい。
http://www.nihon-hp.com/
posted by 戦車男 at 17:10| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月27日

再び、日本軍に鹵獲された戦車

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スチュアート軽戦車です。「軽」といっても約15トンあり日本の97式中戦車とあまり変わりません。正面装甲50mm、砲は37mmでも貫通力に優れていました。ビルマ戦線で、鹵獲したスチュアートによってグラント戦車を撃破したという記録があります。また今度、鹵獲戦車についてまとまったものを書いてみたいと重います。
posted by 戦車男 at 23:52| 東京 🌁| Comment(9) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月26日

磐南総合研究会主催「出陣学徒慰霊祭」の開催

来る12月3日に、私が所属しております保守派学生NPO法人・磐南総合研究会が主催致します、「出陣学徒慰霊祭」が靖国神社にて執り行われる予定です。多数の識者の方もご来場されますので、ご都合つきましたらぜひご参列ください。


実施要綱;平成17年12月3日(土)

第一部  出陣学徒慰霊祭記念集会
     靖国神社内靖国会館2階 開場12時30分   開会13時

■代表挨拶 岩田  温

■学生意見表明  木下淳平、早瀬善彦

■識者によるリレートーク形式(一人10分)
(登壇者50音順・敬称略)
井尻千男 (拓殖大学日本文化研究所所長)
板垣正(元参議院議員・日本遺族会顧問)
小堀桂一郎 (東京大学名誉教授)
加瀬英明 (外交評論家)
清水馨八郎 (千葉大学名誉教授)
頭山興助 (呉竹会会長)
西村幸祐(評論家・戦略情報研究所客員研究員)
藤井厳喜 (拓殖大学客員教授)
水島総 (日本文化チャンネル桜社長)
米田建三 (帝京平成大学教授)

第二部 出陣学徒慰霊祭靖国神社参集所16時集会

詳しくは→http://www.wadachi.jp/ireisai/まで!
posted by 戦車男 at 21:15| 東京 ☁| Comment(11) | TrackBack(1) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月22日

ソミュアS35中戦車(1935年・フランス)

ソミュアS35中戦車
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第二次世界大戦でのフランス軍の評価は非常に低いものである。陣地戦・歩兵戦を主とし、旧態依然とした戦略思想。将兵達の低い士気まったく活動を見せなかった海軍。こうした散々な評価を受けているフランス軍であるが、その中にもきらりと光る一面があったことは否定できない。その一つが今回紹介するソミュア戦車である。

フランスはもともと戦車先進国であった。初めて回転砲塔をもつ戦車を開発し、戦車の大量生産にも成功した。しかしながら、「陣地突破、歩兵支援」という、当初の戦車の使用目的にこだわりすぎたために、その後の戦車開発で列強諸国に大きく遅れをとることになってしまった。

当時のフランスで機動戦の主力を担っていたのは騎兵と装甲車であった。しかしながらこれらの部隊は、不整地での行動力、銃弾に対する防御力、堅固な陣地に対する攻撃力などの、いずれもが不足していた。この認識が強くなった1930年台初頭に、騎兵・装甲車に変わる機動力の高い戦車が開発されることになった。それが1935年に開発されたソミュア戦車である。

ソミュア戦車では、主に三つの斬新な技術が盛り込まれた。その一つが、鋳造による車体・砲塔の製作である。これによって従来の平版を組み合わせた戦士より、生産性が向上した。次に、タンク内に特殊なゴムをいれ、被弾して穴が開いたときに自動でその穴をふさぐようにしたことである。もう一つは、サスペンションの保護のためスカート(側面装甲版)を装備したことである。ソミュア戦車にはその後の戦車のスタンダードとなるさまざまな技術がはじめて使用されたのである。

加えて、戦車としての基本性能も、当時としては非常に優れたものであった。主砲の47mm32口径砲は、当時の主流の37mm砲より一回り大きく、500mで58mmの装甲板を打ち抜く威力を持っていた。装甲は前面56mmで傾斜した装甲を持っており、37mmクラスの砲に対する十分な防御力があった。機動力も路上で最大45km/hを出すことができ、まさに走・攻・守のバランスの取れた戦車であり、戦車個体を見れば、ドイツ軍のV・W号戦車よりも優れていたといえる。うわさの領域ではあるが、アメリカのM4シャーマンはソミュアをまねて作られたといわれたほどである。

ドイツ軍のフランス侵攻時、フランス軍は約500両のソミュア戦車を持っていた。しかしながら、フランス軍はこれらのソミュアをホチキスやルノー軽戦車・歩兵に組み合わせて、各個ばらばらの小さい戦闘集団に分割して運用してしまった。そのため集団で襲い掛かってくるV号・W号戦車に各個撃破されたのである。こうしてソミュアはろくな活躍も見せられず、ドイツ軍に撃破または鹵獲されてしまった。ちなみに鹵獲されたソミュアは300両ほどでパルチザン・レジスタンスの掃討、ノルマンディー上陸後の西部戦線で細々と使用された。

独ソ戦争初期のソ連軍も間違った運用で強力なT34を有効活用できずいたずらに失ってしまった。やはり戦車の能力というのは、それを運用する戦略や戦車兵のマンパワーにも大きく依存することがわかる。


ソミュアS35中戦車
全長:    5.38m
全幅:    2.12m
全高:    2.62m
全備重量: 19.7t
乗員:    3名
エンジン:  ソミュア V型8気筒液冷ガソリン
最大出力: 190hp
最大速度: 45km/h
航続距離: 260km
武装:    32口径47mm戦車砲SA35×1 (108発)
        7.5mm機関銃M1931×1 (1,250発)
装甲厚:   20〜56mm



posted by 戦車男 at 15:55| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(1) | 戦車図鑑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月20日

ディエップ上陸作戦

(チャーチル戦車)
チャーチル.bmp
皆さんはノルマンディー上陸以前に連合軍のフランス上陸作戦があったことをご存知だろうか。実は1941年の8月に、イギリス・カナダ軍の連隊、約5000名がフランスのディエップに上陸を行っていたのである。それが今回のタイトル「ディエップ上陸作戦」なのである。この記事ではその作戦の全貌を紹介したいと思う。

バトル・オブ・ブリテン」からほぼ一年が経過し、ドイツの矛先が東のソ連に向いていた1941年夏、イギリス軍は初戦の敗退から息を吹き返し、アメリカの支援を受けて戦力を充実させつつあった。そこでイギリス軍司令部はドイツの隙を突いてフランスに上陸し、威力偵察をおこうなおうと企てた。偵察といっても連隊規模で約5000名の兵力を動員し、あわよくば町のひとつふたつ占領し、ドイツ軍に揺さぶりをかけようという狙いもあった。もちろん上陸軍は、敵の本格的な反撃が行われる前に撤収し、イギリスに戻るという計画であった。

ドイツが広く宣伝した「大西洋の壁」の構築はまだまだ進んでいず、ヒトラースターリンとの喧嘩に夢中になっている今、この強引な上陸作戦はうまくいくだろうとイギリス軍司令部は楽観視していた。

イギリス軍はこの作戦に新兵器を投入した。それは当時のイギリス首相の名を冠した「チャーチル戦車」(写真参照)である。その名前の由来は、チャーチルがこの戦車をいたく気に入り、陸軍司令部の反対を押し切って採用したことにある。チャーチル戦車は防御力が高く、火力も当時の水準に達していたが、重量が重すぎ、機動力が極度に低い戦車であった。このチャーチル戦車には、数メートルの潜水が可能な改造が施された。上陸地点の手前から船を離れることができ、迅速な上陸支援と、生存率の向上が期待された。

1941年8月19日、ディエップ上陸作戦は実行された。上陸に際してのドイツ軍の反撃はほとんどなかったが、海岸に仕掛けられたドイツ軍の罠が、チャーチル戦車の前進を妨害した。チャーチル戦車は、海岸に掘られたドイツ軍の対戦車壕にはまり身動きが取れなくなってしまったのである。その大重量のため、砂地にはまり込んでしまった車両まである。さらに、潜水装置がうまく作動せず、海に潜ったはいいがそのまま水没してしまった悲惨な車両もあった

戦車を含む重火器は海岸で身動きがとれずなかなか前進することができなかった。歩兵のみが前進を開始し最寄の町へ進軍したが、火力支援が皆無だった。一方、連合軍の上陸を察知したドイツ軍は反撃を開始し、軽装の連合軍を再び海岸に追いやった。海岸まで進軍したドイツ軍の戦車・対戦車砲は壕や砂にはまっているチャーチル戦車を狙い撃ちにした。身動きできないチャーチルは海岸に残骸をさらした。

かくして、楽観された上陸作戦は見るも無残な結果に終わった。上陸した英・加連合軍のうち、イギリスに帰ることができたのはわずか数百名にすぎない。ドイツ軍の海岸への急接近により、艦船の接岸による撤収が不可能だったからである。大半の兵士はドイツ軍の捕虜になってしまった。

この作戦で、連合軍はあまりにも大きい代償を支払うことになったが、上陸作戦に対する慢心をなくし、砂浜の突破や潜水改造などの技術的な教訓を得ることができた。一方ドイツ軍は、敵の上陸作戦に対する慢心を抱いてしまったのである。その結果は1944年のノルマンディー上陸作戦で証明されることとなった。
posted by 戦車男 at 23:04| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月14日

アクセス5000突破!!!

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(ケーニヒス・ティーガー)
サイト開設から約3ヶ月、ついにアクセス5000を突破しました!次は10000に向けてがんばっていきます。これからも「戦車男」を応援お願いします。
posted by 戦車男 at 15:30| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月12日

ポーツマスネットワーク記念シンポジウムのお知らせ

私、戦車男が所属する学生中心の若手保守派の会、「磐南総合研究会」が運営する「ポーツマスネットワーク」の主催で、11月19日午後1時半より、千代田区にある学士会館にて記念シンポジウムを行います。

明治の気概〜日本人の可能性〜」のテーマで、四人のパネリストの先生方に熱い議論を交わしていただきます。お招きする先生は、井尻千男(拓殖大学日本文化研究所所長)、加瀬英明(外交評論家・元首相補佐官)、藤岡信勝(拓殖大学教授)、宮崎正弘(評論家)です(敬称略)。

加えて、当日にはスペシャルゲストの先生にもご登場していただく予定です。東京近郊にお住まいの方で、都合のよい方がいましたら、どうぞ参加ください。


ポーツマスネットワークおよび、シンポジウムの詳細は下のHPを見てください。

■「ポーツマスネットワークhttp://www.nichiro-pn.com/

■「磐南総合研究会http://www.wadachi.jp/
posted by 戦車男 at 23:28| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月11日

クルスクの大戦車戦

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皆様は「クルスクの戦い」をご存知だろうか。ヒトラーが「ツィタデレ(城塞)作戦」と名づけ、ドイツ軍最後の乾坤一擲の大攻勢となった戦いである。

1943年春スターリングラードの戦いでの敗北から落ち着きを取り戻したドイツ軍は、第三次ハリコフ攻防戦でソ連軍に勝利し、夏の攻勢に向けて気勢を上げていた。ハリコフでの勝利により、ロシア南部のドイツ軍戦線は北側で前進。もとより前方にあった黒海側の南方戦線との関係で、中央部をコの字型に囲むように戦線が形成された(写真参照)。逆にソ連側から言えば、この地域はドイツ軍戦線に対する突出部であった。

この突出した戦線のちょうど中心にあった都市がクルスクであり、この戦いの名前の由来である。ヒトラーはこの包囲下にある獲物に目をつけ、南方軍総司令官のエーリヒ・フォン・マンシュタインに先手を打った攻勢を要求した。一方、マンシュタインはソ連軍に先に攻撃をさせ、軍が疲弊し補給が伸びきったところで一挙に反撃、これを殲滅する作戦を提案した。これが有名な「後の先」作戦であり、その有効性はハリコフの戦いで証明されていた。長期にわたる戦争で相対的に弱体化したドイツ軍には、積極的攻勢はあまりにもリスクが大きいと考えたのである。

だが、ヒトラーはソ連軍にみすみす進撃を許すことを断固として許さなかった。ソ連軍の準備が整う前に攻撃する「先の先」を主張した。マンシュタインは作戦を急ぐという条件でやむなく「先の先」を採用することを認め、作戦は5月に開始されることが決定した。

しかし、戦力の充実や、新型戦車パンターの配備に合わせるため、ヒトラーは作戦を何度も延期した。その間、ソ連軍はドイツ軍の攻勢の情報をキャッチし、クルスク周辺の防備を急ピッチで調え始めていた。結局作戦が実施されたのは7月に入ってからであった。
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1943年7月5日、ついにツィタデレ作戦が発動された。南方・中央・北方の三正面、合わせて約300キロにも及ぶ戦線にドイツ軍がなだれ込んだ。だが、作戦の開始直後からドイツ軍は強力な防御陣地にぶつかり、苦戦を強いられた。ソ連軍が建設したパックフロントと呼ばれる防御陣地は、戦車に対する塹壕というのにふさわしいものであった。対戦車壕、対戦車銃、対戦車砲、ダックインした戦車、カチューシャロケット砲、後方の砲兵陣地。あらゆる兵器がドイツ軍の進撃を阻止するために備え付けられ、それは何重にも及んでいた。

7月12日、南方のプロホロフカで彼我合わせて約1500両ともいわれる戦車が激突した。KB重戦車ティーガーに体当たりを行ったり、T34が何十両もの群れを成して飛び掛ったりするような戦車の肉弾戦が繰り広げられた。激しい戦車戦は一日中にも及んだが、結局どちらが勝利したのかわからない状況で、戦いは下火になってしまった。

ドイツ軍が必死でクルスクに取り掛かっているとき、ソ連軍は北方のオリョールで攻勢を開始。西側の連合軍もシチリア上陸作戦を開始した。この報を受けたヒトラーは作戦の中止を宣言。こうしてドイツ軍最後の大規模攻勢は尻切れトンボで終結してしまった。最終的にドイツ軍は各前線で50キロほど前進したに過ぎず、クルスクに到達するにはまだ倍以上の距離を残していた。

この戦いで両軍が動員したおおまかな兵力は、兵員約200万人、戦車4000両、航空機5000機、砲20000門以上と考えられている。私が不思議に思うのは、このような大規模な作戦がなぜ教科書で取り上げられていないのかという疑問である。この作戦の動員数はノルマンディー上陸作戦に匹敵する。むしろよく教科書に取り上げられるシチリア上陸は戦局に大きな影響を与えたと思えない(イタリアはもともと枢軸のお荷物だし、イタリア中部のグスタフラインでほぼ終戦まで戦線が動かなかった)。この事実を世に伝え、広めることが必要であろう。

この作戦以降、ドイツ軍は一方的後退を続けることになる(バルジの作戦を除く)。スターリングラードの戦いが戦局の分水嶺だといわれるが、私はこのクルスクの戦いこそが分水嶺だと思う。マンシュタインは、このクルスクの戦いまで、ドイツの最終的勝利の可能性を確信していたのである。だが、この敗北を受けてその確信は崩壊した。その詳細は彼の著「失われた勝利」に詳細に書かれている。

こういった点からもクルスクの戦いに対する再考が求められる。
posted by 戦車男 at 02:08| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月07日

W号戦車改良案

大戦を通じて活躍したドイツ軍のW号戦車。敵戦車の発展に対抗してさまざまな改良が重ねられましたが、戦争後期における力不足は明らかだったと思います(特に防御力)。戦争後期においても数的に主力であったW号戦車の抜本的な改良案を提示してみたいと思います。

◆案
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@前面装甲板を一枚の傾斜装甲板に変更。
A側面装甲板も傾斜装甲に変更。
B砲塔前面のクラッペを廃止し装甲を増加。かつ、防盾を一気に大型化して、砲塔前面の防御を強化する。
※前部に対する重量過多に対してはW号駆逐戦車ラングのように転輪の強化によって対応する。

以上のように考えてみました。が、前回の「W号戦車」で書いたようにこれではパンターになってしまうのかなと思いました。が、ある程度戦闘力は低くとも生産性が高い「小さなパンター」こそがドイツ軍に必要だったのではないのでしょうか?

posted by 戦車男 at 14:43| 東京 ☀| Comment(8) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月05日

早稲田祭

本日と明日の二日間、早稲田大学にて大学祭が催されます。東京近郊でお暇な方はどうぞいらしてください。模型研究会や戦史研究会などもありますのでいろいろと楽しめるかと思います。
posted by 戦車男 at 14:52| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月01日

プラモデル製作の思い出

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中学のころ、プラモデルの戦車にかなりはまっていました。たしか初めて作ったのがレオパルド1だと思います。といってもただパーツをつないで組み立てただけで非常に稚拙なものでした。

次に作ったのが写真に出ているパンターだと思います。缶スプレーでダークイエローに塗装し、本格的(?)な出来栄えにけっこう感動した記憶があります。その後そのパンターは冬季迷彩と称して白く塗ったり、学校から持ってきたチョークなどでウェザリング(汚し)を施したりと、いろいろな実験に使いました。最終的にはエアガンの射撃の的にしてしまったのですが、少し可哀想だったかなと今思います。

その後、V号突撃砲、ヘッツァー、V号戦車、ブルムベア、ティーガーTを製作しました。この内のV号戦車なのですが、24分の1の大きさで標準のスケール(35分の1)より少し大きく、もともとモーターライズのモデルだったようで、キャタピラや転輪が可動できるタイプでした。このV号戦車を壊れたラジコンと組み合わせて、ラジコン戦車にしようと僕は試みました。

プラモ屋でパテやギア、シャフトなどを購入し、モーター部分はリモコン戦車のモーターを流用しました。プロポは自動車のラジコンの物を流用し車体に組み込みました。三日ほど悪戦苦闘して製作し、やっと完成させることができました。

しかしながら、モーターから動力を伝える起動輪の部分のシャフトの支えの強度が弱く、その部分が壊れてしまいすぐに動かなくなってしまいました。改良して何とか動かそうとはしたのですが結局子供の知恵では不可能でした。

中学三年のとき、エアガン会社の東京マルイから、エアガンが発射できる90式戦車のラジコンを購入しました。自作するよりメーカーが作る確実なものがいいと感じてたからかもしれません。それでも、苦闘してプラモデルを製作した思い出はいいものだったと思います。

まだ、箱すら開けてないキングタイガーが実家に残っているので、また暇があったら作ってみたいと思います。
posted by 戦車男 at 17:58| 東京 ☀| Comment(114) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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