2006年02月08日

ヘッツァー駆逐戦車

hetzer.jpg
はじめてこの戦車を見たときに私が感じたことは、「非常に完成度が高い、機能美を実現した戦車」という印象だった。傾斜装甲で構成された戦闘室、そして戦闘室と一体となった車体。小粒ながらも強力な印象を受けるのが本車である。

実際に、ヘッツァーのカタログ上のデータは、重量が10トン近く重いV号突撃砲に匹敵する。傾斜した前面の装甲厚は60mmあり、M4シャーマンやT34/76でも、500m以内に近づかなければ撃破することは困難だった。主砲は48口径75mm砲であり、W号戦車やV号突撃砲と同じである。最高速度は42kmで、軽快とはいえないが、当時の一般的な水準に達していた。

そもそもヘッツァーが開発されたのは、1943年の連合軍の空襲によって、V号突撃砲の生産を行っていたアルケット社が大打撃を受け、チェコのBMM社にV号突撃砲の生産の依頼が来たのが発端である。依頼を受けたものの、BMM社の設備ではV号突撃砲が生産できないことがわかったため、38(t)戦車の車台を利用した駆逐戦車を生産することが決定された。

これまでもマルダーなど、38(t)戦車の車台を利用した自走砲はあったが、ヘッツァーの場合は従来の自走砲とは大きく異なり、全高は低く抑えられ、密閉式の戦闘室に改められた。戦闘室の容積を広く使うため、大砲は前方に張り出しつつ、車体の右寄りに据え付けられた。そのために、右側に余計に850kgの重量がかかり、車体前部は10cm沈んでしまった(走行には支障はなかった)。車載機銃は車体内部からリモコン操作で発射することができる。

ヘッツァーの試作車両は1944年3月に完成し、その優れた性能から4月には量産が開始された。戦争が終結する1945年3月までにヘッツァーは約2800両が生産された。長年来使用してきた38(t)戦車の車台であったので稼働率も高く、ヘッツァーは後期ドイツ軍の装甲戦力の一翼を担ったのである。戦後もチェコやスイスでヘッツァーがしばらく利用された。

ヘッツァーの弱点は、カタログ上には出ない点でいくつかあった。もっとも重大なものは、車体が狭くて戦車を操作する上で、ほかの戦車に比べ多くの点で困難があったということであった。車体が狭いため、砲の装填にはV号突撃砲の約2倍の時間がかかる。出口も、後部に1ヵ所しかなく、居住環境は最悪であった。

しかし、以上のような弱点を配慮に入れても、ヘッツァーが優れた駆逐戦車であったことは間違いないだろう。

posted by 戦車男 at 15:15| 東京 ☀| Comment(44) | TrackBack(10) | 戦車図鑑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月31日

大学のテスト

一月の二週より二日にひとつくらいのペースでだらだらとテストが続いております。今月は更新が滞りがちで申し訳ありませんでした。

面白い戦車の写真がありましたのでご紹介いたします。

(ソ連軍空挺戦車)
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posted by 戦車男 at 13:26| 東京 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月30日

戦車のサスペンション

大重量の戦車を支える足回りは非常に重要なものである。走行中の乗員の快適性戦車の耐久性に大きく関係するし、主砲発射後の動揺を抑える性能は、砲の発射速度に直接繋がってくるからだ。ということで、今回は戦車のサスペンションについてみてみたい。

戦車の登場当初、走行や射撃による衝撃を吸収するサスペンションというものは装備されていなかった。そのために、車内の振動はすさまじく、乗員は壁に頭をぶつけても大丈夫なように保護帽やヘルメットを装備していた。初期の戦車は速度も遅く、大きな砲をつんでいるわけでもないので、それでもよかったのだが、次第に速度が速くなってくると、振動や衝撃は無視できなくなってきた。そこでサスペンションが採用されたのである。

初期のサスペンションの多くはコイルスプリング、またはリーフスプリング(板バネ)方式であった。コイルスプリングは写真にあるように、われわれが一般的に「バネ」と認識しているもので、このバネが伸縮することによって衝撃を吸収する。コイルスプリングを採用した戦車としては、ルノーFTやシャーマン戦車などがある。

(コイルスプリング)コイルスプリング.jpg

リーフスプリング方式は、金属の板を重ねたサスペンションで、それらの金属の板が、圧力に対して元に戻ろうとする力によって衝撃を吸収する。このサスペンションの特徴は、金属の板を重ねるという単純な構造のため、圧力の大きさに応じて減衰力(衝撃吸収)を容易に調整できるということ、そして強度が高いということである。今もリーフスプリングサスペンションは使われているが、主にトラックや建設機械など、耐久性が要求される車両に使われている。

(リーフスプリング)
板バネ.jpg

そして、現在の戦車の主流となっているのがトーションバー(捻り棒)方式のサスペンションである。コイルスプリングは、構造上、大重量を支えるサスペンションとしてふさわしくなく、リーフスプリングでは減衰力にいまひとつ不足があったのだ。トーションバーを口で説明するの難しいが、簡単に説明すると、車体の底に一本の棒を通し、その先端にスイングアーム(転輪を支えるアーム)が付いている。転輪に力が加われば、スイングアームが動くのだが、車体に固定された棒(トーションバー)が捻られまいと反発する。それによって減衰力を得るのだ。

(トーションバー)049-005.jpg

最初にトーションバーを採用したのはドイツでV号戦車であった。トーションバーはその後各国で採用され、主流となったのである。トーションバーの弱点としては、車体の底に棒を通さなければならないので車高が高くなってしまうことである。

もうひとつ言及しておかなければならないサスペンションは、油圧式のサスペンションである。これは、液体の出口のない注射器を想像していただければわかりやすい。このサスペンションの特徴としては、中のオイルの量を調整することによって車高や減衰力を容易に調整することができる点である。このシステムは世界に先駆けてわが国の74式戦車が採用したのである。
posted by 戦車男 at 13:18| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月16日

T-44中戦車(ソ連)

t44_10.jpg
最近まで私も全く知らなかった戦車である。このT-44中戦車はT-34の後継の主力戦車として1943年に開発された。実際に部隊配備も1944年末には一部の部隊で完了していたのである。しかしながら、ソ連指導部は、すでに敗北しつつあるドイツに新兵器を差し向けるよりも、アメリカやイギリスなどの西側諸国との、将来における戦いに備えて温存しておくほうがよいと考えていたようである。

T-44はT-34と外見が似通っているものの、いくつかの点で大きな変更が行われ、主に生産の効率化が計られている。もっとも大きな変更点は車体である。T-34のような傾斜面で構成された車体を改め、前面以外は垂直面の単純な箱型とした。さらに従来のクリスチー式のサスペンションを変更し、大重量でも安定性の高いトーションバー式とした。このような変更で形成されたT-44の車体は、続くT-54から現在までのロシア戦車に基本的に共通のものである。

砲塔に関してはT-34とあまり変更点はなく、T-34と同じ85mm砲を装備した。ただし、他国の戦車の攻撃力向上に追いつくため、100mm砲に早い段階で変更された。T-44の弱点は、砲塔リングが小さく設計されたために、100mm砲以上の戦車砲を搭載することが不可能で、攻撃力の向上ができなかったからである。

T-44は約1000両ほど生産されたが、上で述べたような攻撃量の不足から、多くは訓練用に使われ、70年代頃まで在籍していた。性能としては、特に際立った戦車ではないと思うが、ロシアらしい質実剛健な戦車であるといえよう。


T-44中戦車(ソ連・1944)

全長:    7.65m
全幅:    3.10m
全高:    2.40m
全備重量: 31.5t
乗員:    4名
エンジン:  V-44 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル
最大出力: 520hp/2,000rpm
最大速度: 50km/h
航続距離: 235km
武装:    54.6口径85mm戦車砲ZIS-S-53×1 (58発)
        7.62mm機関銃DTM×2 (2,750発)
装甲厚:   15〜120mm


posted by 戦車男 at 18:10| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 戦車図鑑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月11日

あけましておめでとうございます!

年末年始と長らく更新が滞っておりました。申し訳ありません。先日成人式を終えて東京に戻ってまいりました。実家のIT環境が極めて貧弱(未だダイアルアップ。50KB/秒。使用中は電話が使えない)な上、頼みの綱の図書館が閉館だったのが理由であります。

これから再び記事のほうを充実させて参りますので、今後ともどうぞよろしくお願いします!
posted by 戦車男 at 14:33| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月24日

地元に帰省いたします。

ブログの更新が滞ってしまい申し訳ありませんでした。忘年会や帰省の準備など、いろいろと忙しく今日まで延びてしまった次第です。

大学も冬休みに入り、いよいよ本年も終わりに近づいてきました。私、出身は静岡でして、明後日地元に帰る予定です。地元でも投稿いたしますので年内に後何度か更新できるとは思いますが、何分実家のネット環境が貧弱なので、再び滞ってしますかもしれません(笑)
posted by 戦車男 at 20:19| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 戦車男の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月20日

戦争映画

(映画「メンフィス・ベル」)
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先日、光人社ノンフィクション文庫の『リアル・グットウォー』という本を読んだ。内容は、第二次大戦中、ドイツ本土爆撃を行うアメリカ航空隊の若者たちを描いたものである。当時のアメリカ空軍爆撃隊は、35回の爆撃ミッションをこなした兵士たちを帰国させるというルールになっており、若者たちは、その35回のカウントダウンに全集中力を注ぎ込み、肉体的にも精神的にも過酷な日々を送っていた。彼らが爆撃に使った「B-17」は「空の要塞」といわれ重武装を誇ったが、爆撃機に乗っている側の人間にしたら、戦闘機の出現を抑えることはできないし、高射砲の弾幕をくぐれるかも運しだいである。一回一回のミッションを乗り切れるかが彼らのすべてだったといってもいいだろう。

そういった本を読んだ経緯で、昨日、同様のテーマを扱った戦争映画「メンフィス・ベル」を見た。その中ではまさに、『リアル・グットウォー』で読んだ世界が広がっていた。眠っているクルーたちを起こし、ミッションにいざなうハングマン(死刑執行人)、ブリーフィングでの緊張した空気、高射砲の弾幕・戦闘機の襲撃など、上空での激しい戦闘、これらの光景がありありと描かれていた。

作品の内容については、まとまりがなくいまいちであったが、当時の雰囲気を知ることができたように思った。

その他、私がここ近年で見た戦争映画は「プライベートライアン」、「スターリングラード」、「パールハーバー」、「バルジ大作戦」、「ヒトラー」(含めていいのか?)などである(あまり映画を見てない・・・)。

(映画「バルジ大作戦」)
1001.jpg

戦車に絡めてコメントを述べると、どれも偽物(特にドイツ軍)ばかりで作り物がばればれである。「プライベートライアン」のティーガーはT-34の改造が丸わかりで心苦しかったが、ケッテンクラートが走っている映像を見ることができたのは感動だった。バルジ大作戦はドイツ側も連合軍も米軍戦車ということでリアリティーが感じられない部分もあった。映画において、服装や火器などの小道具はかなり忠実に再現されるのに、戦車などの大道具がいい加減になってしまうのは何とかしてもらいたいものである。確かに金がかかるが、知っている人が見たら一番違和感を感じてしまうところだろう。

(映画「プライベートライアン」)
1001.jpg

上記の映画で私が一番印象を受けたのは最近公開された「ヒトラー」である。軍事関係の見所はそこまで多くはないが(軍装や小火器、88mmも出たか)、ヒトラーを中心にすえた崩壊間際の第三帝国の人間模様が興味深い。映画全体の雰囲気としては、ひとつの歴史小説を読んでいるようで、アメリカ映画にありがちな、単純なドラマ的な展開はなく、淡々と史実が描かれている。一見の価値ある映画だと思う。

映画についてあまり詳しくないので、何かお勧めの映画がありましたら教えていただきたい。



posted by 戦車男 at 20:37| 東京 ☀| Comment(9) | TrackBack(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月18日

北方領土問題についての概説

先日行った、私の所属する磐南総合研究会の勉強会で発表しました、北方領土問題についてのレジュメです。北方領土問題の経緯、日露両国の立場について、コンパクトにまとめてみました。興味がありましたらご覧ください。
02hoppou2.jpg
(北方領土を視察する小泉首相

□北方領土問題とは
◆歴史的経緯(『重光晶「北方領土」とソ連外交』時事通信社参照、以下本書からの引用)

・19C、樺太や択捉島以北の千島列島にロシア人が進出し、日本人と接触が始まる。

・1855年「日露通商友好条約」締結。択捉島以北の千島列島をロシア領とし、以南を日本領とする。樺太島に関してはとりあえず日露混住とし、後に境界線を決めることとされた。

・1875年「千島樺太交換条約」締結。樺太全島をロシア領とし、「クリル群島」すなわち占守島から得撫島までの島々は日本領とすることに合意。
※交換されたのはあくまで「クリル群島」であり、北方4島はこの時樺太と交換で領有したわけではない。

・1905年「ポーツマス条約」締結。北緯50度以南の樺太が日本に割譲された。

・1945年8月9日、ソ連対日戦に参戦。10日南樺太に侵攻、18日(停戦決定後!)千島列島に侵攻。15日の終戦後もソ連は侵略を続け、9月中に全樺太・千島列島を占領した。ちなみに日本軍が戦闘行動を中止した15日時点でソ連軍は樺太の50度線から20キロ進んだに過ぎない。占守島に上陸したソ連軍も一度撃退されており、千島列島の占領が本格化したのは日本軍の武装解除後だった。

1946年2月、「南サハリン州」を設置し、一方的に占領地域をソ連領に併合。

1951年「サンフランシスコ平和条約」締結。日本は千島列島及び南樺太を放棄することと定められたが、その帰属先は明記されなかった。さらに、「千島列島」の範囲が米英ソ日など関係主要国の間ではっきりと決められなかった。なお、ソ連は、南樺太の返還と千島列島の引渡しを要求したが認められず、これを不満としてサンフランシスコ平和条約を締結しなかった。

1956年、「日ソ共同宣言」日本は最低限度として固有の領土である4島返還を要求。しかし、ソ連は2島返還によって領土問題の解決を求めた(2島は北方領土の総面積のわずか7パーセントに過ぎない!北方4島の面積は約5000平方キロメートルであり、千葉県と同じくらいの広さがある)。日本は抑留者の問題や国連加盟の問題をこれ以上放置できなかったため、やむをえず領土問題を棚上げにして国交を回復。平和条約は結ばれていない。すなわち、日露両国は領土問題に関しては未だ戦争中である。

以降、領土問題に関して顕著な進展なし。
hoppoumap.gif
(北方領土地図)

◆「北方領土問題」ソ連(ロシア)の立場(と反駁)
ヤルタ協定における米英ソ三国での合意(南樺太の返還、千島列島の引渡しを英米ソで合意)
→少なくとも北方4島に関しては日本固有の領土であり、ソ連も参加したカイロ宣言・ポツダム宣言の領土不拡大の原則に反する。さらにサンフランシスコ平和条約2条C項(ソ連に領土が与えられることは書かれなかった)の成立により、米英のヤルタ協定における合意は取り消されたとみなされる。

・「サンフランシスコ平和条約で日本は領土を放棄した」という主張。
→帰属は決定していないし、千島列島の範囲も未確定。1954年、米国はソ連にあてた書簡の中で、「北方四島は千島列島に含まれない」と記述。それ以前にソ連はサンフランシスコ平和条約を締結していない。(p41参照)

・参戦に伴うソ連の犠牲に対する対価、日本への懲罰。
→ソ連との戦闘はわずか一週間足らずであり、大半は終戦後かすめとった領土である。加えて日本に対する参戦の理由もでっち上げの中立条約違反である。でまかせ、はったり。

・「すでにソ連のものになっているから諦めろ」という主張。ドイツにおいて東プロイセンを奪う際に、この方式が成功したため日本に対しても主張。ただし、これはドイツが分裂したため、平和条約が現実問題として結べないこと、加えて両ドイツが領土の返還要求をしていないことが根底にある。

以上が北方領土問題の経緯とそれぞれの立場である。
posted by 戦車男 at 15:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月15日

ハーフトラックA

調達本部さん、十津川さんより興味深いコメントがあったので、それに答えつつ、前回書ききれなかった点を補って今回の記事にしたいと思う。

まず、主なハーフトラック利用国であるドイツとアメリカの比較をしてみたい。垂直面で構成された簡素なM3と、ハンドルに連動してキャタピラの制動がなされる、凝った構造のドイツのハーフトラックでは、確かに「質」と運用の思想に大きな違いがあったと思う。

アメリカの場合は、当初は弾薬輸送、後に兵員輸送を目的として開発された。そのため、ある程度の装甲と不整地行動力をハーフトラックに求めたであろうが、とにかく機甲師団、歩兵師団にかかわらず配備するため、大量にそろえることが前提であった。それゆえ性能が凡庸でも、単純な構造で生産性の高い車両に仕上げたのであると思う。

ドイツの場合は、調達本部さんのコメントの指摘にあるように、機甲師団の兵員輸送や弾薬運搬、砲の牽引を目的に開発されたため、戦車などの追随可能な、路外での不整地機動力が求められた。それゆえ、性能向上のため、エンジン・操縦装置・キャタピラ(路上での行動力向上のためゴムパッドがつけられた)・車体構造が複雑になったのだろう。もちろん、効率を考えないドイツ的な機械へのこ「こだわり」が影響したのはいうまでもないだろう。これは、ティーガー戦車マウス80cm列車砲グスタフなどに見られるし、ポルシェ博士などはその権化である。

アメリカの場合、大量生産の方針はおおむね成功を収めたといえるが、やはり路外での機動力、そして市街戦などでの防御力が不足で問題視された。それゆえ戦後に、前線での兵員輸送は防御力・機動力の高い密閉式のキャタピラ車になり、後方での輸送は軽快な装輪車になったのであろう。中途半端なハーフトラックに両方の任務を行わせるより、それぞれの任務に特化した車両を使う方が効率的である。

ドイツの場合は、機甲師団とその他の部隊とでハーフトラックの種類が分かれていたといえるが、いずれも構造が複雑で量産に向かない。慢性的な輸送力不足であったことを考えれば、性能が高くて複雑な構造の車両を使うよりも、とにかく数をそろえることが重要であったのではないだろうか。特に輸送車両の場合は、戦闘に直接関係ないので、数が一番優先されるはずだ。例えば10両の97式中戦車は1両の90式戦車に勝つことはできないが、10両のジープは1両のハマーに輸送量で勝つことができるのだ。
posted by 戦車男 at 16:48| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハーフトラックA

調達本部さん、十津川さんより興味深いコメントがあったので、それに答えつつ、前回書ききれなかった点を補って今回の記事にしたいと思う。

まず、主なハーフトラック利用国であるドイツとアメリカの比較をしてみたい。垂直面で構成された簡素なM3と、ハンドルに連動してキャタピラの制動がなされる、凝った構造のドイツのハーフトラックでは、確かに「質」と運用の思想に大きな違いがあったと思う。

アメリカの場合は、当初は弾薬輸送、後に兵員輸送を目的として開発された。そのため、ある程度の装甲と不整地行動力をハーフトラックに求めたであろうが、とにかく機甲師団、歩兵師団にかかわらず配備するため、大量にそろえることが前提であった。それゆえ性能が凡庸でも、単純な構造で生産性の高い車両に仕上げたのであると思う。

ドイツの場合は、調達本部さんのコメントの指摘にあるように、機甲師団の兵員輸送や弾薬運搬、砲の牽引を目的に開発されたため、戦車などの追随可能な、路外での不整地機動力が求められた。それゆえ、性能向上のため、エンジン・操縦装置・キャタピラ(路上での行動力向上のためゴムパッドがつけられた)・車体構造が複雑になったのだろう。もちろん、効率を考えないドイツ的な機械へのこ「こだわり」が影響したのはいうまでもないだろう。これは、ティーガー戦車マウス80cm列車砲グスタフなどに見られるし、ポルシェ博士などはその権化である。

アメリカの場合、大量生産の方針はおおむね成功を収めたといえるが、やはり路外での機動力、そして市街戦などでの防御力が不足で問題視された。それゆえ戦後に、前線での兵員輸送は防御力・機動力の高い密閉式のキャタピラ車になり、後方での輸送は軽快な装輪車になったのであろう。中途半端なハーフトラックに両方の任務を行わせるより、それぞれの任務に特化した車両を使う方が効率的である。

ドイツの場合は、機甲師団とその他の部隊とでハーフトラックの種類が分かれていたといえるが、いずれも構造が複雑で量産に向かない。慢性的な輸送力不足であったことを考えれば、性能が高くて複雑な構造の車両を使うよりも、とにかく数をそろえることが重要であったのではないだろうか。特に輸送車両の場合は、戦闘に直接関係ないので、数が一番優先されるはずだ。例えば10両の97式中戦車は1両の90式戦車に勝つことはできないが、10両のジープは1両のハマーに輸送量で勝つことができるのだ。
posted by 戦車男 at 16:47| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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